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Sep 28, 2010

結果報告: 走りました

約3ヶ月ほど前にエントリー「決意表明:走ります」に書いたとおり、第3回菅平スカイライントレイルランレースに参加しました。19kmを2時間43分で完走。何人中なのかはわかりませんが25位という満足できる結果でした。

コースは厳しい登りあり、平地あり、崖あり、登山道あり、牧場あり、笹藪あり、岩場ありと本当に自然の中を走った感じがしました。僕が長時間走ることが嫌いな理由の1つは退屈だからというものですが、今回は景色がめまぐるしく移ろって飽きませんでした。

直前のコース変更により15kmが19kmになるという初心者には悪夢のような出来事はあったものの、終わりよければそれでよしです。

[caption id="attachment_2285" align="aligncenter" width="448" caption="ゴール後の空はとくに青く綺麗だった"][/caption]


ずっと近くに住んでいて身近なはずの菅平の新たな魅力を発見出来たのがよかったです。
またこんな秋晴れの日に仲間を誘って、今度は同じコースをのんびりハイキングしたいと思いました。

Sep 25, 2010

カメラ狂いの曾祖父の戦争

祖父が学徒出陣した話は、1つ前のエントリー「祖父と戦争」に書いたとおりである。
このエントリーでは酒に女に骨董にカメラにと放蕩を繰り返した曾祖父が、実は戦争中にその趣味でずいぶんと村人に感謝されたという話をしたい。

[caption id="attachment_2255" align="alignnone" width="600" caption="出征前の記念写真(左から祖父の姉、祖父、曾祖母、曾祖父)"][/caption]

この出征前の家族写真を見たときに、跡継ぎ息子を戦争にとられようとしているのにリラックスした笑顔の曾祖父の表情がすこし気にならなかった。 もしかしてこれで心置きなく遊べると思っていたりして? 母親にたずねたところ、曾祖父には曾祖父の戦争のエピソードがあるということがわかった。

戦中に曾祖父は戦争に行った留守家族を訪ねて写真をとったのだという。もちろん戦地の兵隊さんに家族の写真を届けるためである。
祖父の残した大量の乾板の中にはそういった「戦地の家族への笑顔」がたくさんのこされている。

その一部を紹介したい

[caption id="attachment_2272" align="alignnone" width="600" caption="はぜかけの稲の前で"][/caption]

[caption id="attachment_2273" align="alignnone" width="600" caption="干し柿?"][/caption]

[caption id="attachment_2274" align="alignnone" width="600" caption="小さい子供を残して出征した家庭だろうか"][/caption]

[caption id="attachment_2275" align="alignnone" width="600" caption="立ち方も似てしまうよね。家族だから。"][/caption]

[caption id="attachment_2276" align="alignnone" width="600" caption="右端に照れくさそうな少女"][/caption]

[caption id="attachment_2279" align="alignnone" width="600" caption="他にも多数"][/caption]

どれも農村の人々のかざらない笑顔と生活をそのまま伝える写真である。当時の写真は、人生の節目に一張羅をきて街中の写真館にいって写真をとってもらうというようなビッグイベントであるがゆえ、曾祖父が撮った写真は資料価値があるということで地元の市立博物館で特別展が開かれ、めぼしい作品は冊子にまとめられた。

その巻頭に祖父はこんな言葉を寄せている。
『太平洋戦争の末期に、父が村中の出征兵士の留守家庭を精力的に回り、戦地へ送る写真を提供していたことは、私は留守で知りませんでした。然し戦後の村人の間では、戦時中の好ましい話題として語られ、私にまでお礼をいわれました。(中略) こんなに村内を隈なく回ったのは、妻は「一人息子を戦場に送っている父の気持ちがそうさせたのでは」と言います。思っても居なかった妻の説も、頷けるところがあるような気が致します。』

どうしようもない遊び人の曾祖父も一人息子を思い、他の出征兵士を思い、村を駆け回っていたのである。

Sep 24, 2010

祖父と戦争

ここに一枚の写真がある。

歴史の教科書などにありがちな、変哲もない出征兵士を見送る写真だ。ただし見送られているのは僕の母方の祖父である。

[caption id="" align="alignnone" width="600" caption="右に立つのは両親である曾祖父と曾祖母"][/caption]

祖父が招集されたのは昭和18年、いわゆるひとつの学徒出陣というやつである。相模原の陸軍通信学校の兵科に入学し通信兵としての教育を受けた。その後満州に渡り、電信8連隊に所属した後、希望が通って北海道の室蘭通信所に赴任した。終戦時は室蘭通信所長を務めていたという。 曾祖父のアルバムには、祖父の運命を変えた一枚の紙切れも乾板写真として保存されている。一部モザイク。



[caption id="attachment_2266" align="alignnone" width="395" caption="入営を命ず"][/caption]


祖父は今も存命で、しかも元気である。ただし戦争の話をしたがらない。孫はもちろん、娘にもめったに戦争の話をしないという。

そんな祖父が珍しく思い出を語ってくれたことがある。正月にお屠蘇を飲みながら、太平洋戦争の時に日本軍の暗号が米軍に解読されていたってのは本当なのかを質問してみた時の事だ。

『大分前から、海軍の暗号書がとられたという噂は中でもあったな。。。』
『終戦の1年前くらいから、今度は陸軍の暗号書も漏れたんじゃないか?どうもおかしいぞ。って話があったよ』

祖父の記憶は鮮明で、僕は慌ててメモを用意した。
『通信兵は「暗号書」と「鍵」ってのを持たされていてだな、でも終戦で引き揚げてくるときにはそれを燃やせという指示が出た。』
『燃やせる場所が無くてだな、引き揚げるときの室蘭駅の駅長室のストーブを借りて焼いただ。』
『とっておいたらよかったかなぁ。』
元通信兵ならではの戦争の話、娘である僕の母親も初めて聞く話であったらしい。

祖父は終戦後、故郷に戻り、同じ村の女性を嫁にもらい、そこに母や叔父、伯母が生まれた。 祖父が満州で死んでいたら、シベリアに抑留されていたら、室蘭で死んでいたら、僕はこの世に生まれなかったことになる。

戦争がどうこうは置いておいて、祖父には生き抜いてくれてありがとうとしか言えない気がする。

[caption id="attachment_2258" align="alignnone" width="600" caption="子供の頃の祖父と当時としては珍しい自転車"][/caption]

そして改めて写真の説得力の強さに驚かされてます。

カメラ狂いの曾祖父が残した写真を貼ってみる

僕の曾祖父というのは家が傾くほどに遊び倒した、度を超えた趣味人であったそうだ。曾祖父の趣味の1つはカメラであった。ここでは曾祖父が残した写真の中からいくつかを淡々と紹介したい。

[caption id="" align="alignnone" width="454" caption="曾祖父(中央)と祖父(右)"][/caption]

[caption id="attachment_2239" align="alignnone" width="600" caption="明るい農村"][/caption]

[caption id="attachment_2243" align="alignnone" width="600" caption="鎌倉の大仏、今より周りがすっきりしている。"][/caption]



[caption id="attachment_2241" align="alignnone" width="454" caption="木村カエラを彷彿とさせる少女"][/caption]

[caption id="attachment_2242" align="alignnone" width="600" caption="座り姿にも風情がある旦那衆"][/caption]



[caption id="attachment_2244" align="alignnone" width="600" caption="これはどこだろう。東京のどこかかかな?"][/caption]



[caption id="attachment_2245" align="alignnone" width="458" caption="外国っぽいけどこれも多分東京。"][/caption]



[caption id="attachment_2246" align="alignnone" width="600" caption="約100年前のギャル"][/caption]

自分が撮った19世紀の乾板写真がデジタル化されインターネットで世に出るとは曾祖父もあっちの世界で驚いているに違いない。

破天荒な曾祖父とその息子である僕の祖父の話はいずれブログに書きたいと思う。

Sep 3, 2010

総合火力演習の思い出

晴れ渡る御殿場の空、僕は2人の同僚とショーの開始を待っていた。
目の前には白い雲をまとって悠然と富士山がそびえていた。
まだ10時だというのに情け容赦なく日差しが僕らに絡んでくる。
ポカリスエットで喉を潤しながら「富士山は近すぎると姿に風情がなくなってよろしくない」などと一人思っていた。

[caption id="attachment_2220" align="alignnone" width="600" caption="90式戦車"][/caption]

やがて50m先の広場に鷹揚な感じで90式戦車が走りこんできて、僕らに背を向け、2km先の目標に対戦車りゅう弾を放った。
腹に響くような「ドスーン」という音がし、一瞬の静寂の後に目標が黒煙に包まれる。
ものすごい殺傷力をひめた兵器なのだろうが爆発はあくまで爽やかで暴力性がない。一風変わった花火大会と理解して、その後のミサイルやら機銃やらヘリコプターやらを堪能することにした。

横では後輩が露店で買ってきたソーセージを食べていた。それを見てコンビニでかってきたキノコの山を思い出した。
開けてみると、そこには目を覆いたくなる光景がひろがっていた。イチゴは溶け乱れ、キノコはいりみだれる。あぁキノコの山。

今日虚空に向かって放たれた火力の、あの膨大なエネルギーは、時空の歪みをたどって、僕のキノコの山を殲滅した。
そう考えるとすべてがうまくつながる。キノコ無念。

[caption id="attachment_2227" align="alignnone" width="600" caption="スタッフがおいしくいただきました。"][/caption]

総合火力演習の写真


[caption id="attachment_2222" align="alignnone" width="300" caption="総攻撃。上空のヘリと、地上の戦車の数がすごい"][/caption]

[caption id="attachment_2223" align="alignnone" width="300" caption="ヘリコプターは車もはこべるんです。"][/caption]

[caption id="attachment_2235" align="alignnone" width="600" caption="人の多さをパノラマで"][/caption]

ちなみに


総合火力演習は陸上自衛隊が大量に実弾を豪快にぶっ放す様を一般に公開するイベントである。チケットは無料であるが非売品で、抽選で手に入るのだが倍率が高いという。いつかみてみたいとは思っていたのだが、今年はたまたま陸自の友達にチケットをもらえたのである。ありがとう、つねっち。