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Dec 10, 2010

11月の風景

写真で振り返る11月頃。

上野の国立博物館にいった。目当てははやぶさ関連の展示だったけど、宇宙凧イカロスの帆を見る事ができて嬉しかった。この帆はものスゴく薄い。打ち上げ時にはキレイに折り畳んで宇宙で展開するというのだから、高度な技術が必要だろう。体勢をかえるメカニズムも目から鱗でした。

[caption id="attachment_2304" align="alignnone" width="600" caption="宇宙凧イカロスの帆の1/4。想像してたよりでかい。"][/caption]

コンピューターセキュリティ関連のイベントに参加した。「若手が育ってない」とたびたび耳にするけど、ここに集まったの若手は 熱い。人は「育ってない」のではなく旧世代とは違うフィールドで勝負しているのだと思う。いろいろとお世話しつつも、自分自身がもっとがんばらんといかんと再認識した。

[caption id="attachment_2305" align="alignnone" width="600" caption="AVTokyoはもりあがっていた"][/caption]

Twitterには何度か書いたけど南アフリカのヨハネスブルグに出張した。世界で一番危険な街と言われているだけのことはある。夜は出歩きたくないと思った。まぁでもサンパウロも結構酷かったからな。とにかく今年はサンパウロ、ヨハネスブルグという危険な都市トップ2を経験したので、今後大抵の事では動じないと思う。

[caption id="attachment_2307" align="alignnone" width="600" caption="絶対近づいてはいけないダウンタウン。普通の光景に見えて建物のガラスが割れている。"][/caption]

[caption id="attachment_2306" align="alignnone" width="450" caption="ヨハネスブルグの市街地"][/caption]

南アフリカではトレーニングの講師をした。準備の時間がとれなかったわりにはうまくいったと思う。受講者アンケートの指摘も上司のアドバイスも次に同じような機会があったら、きちんと改善してやろう。

[caption id="attachment_2308" align="alignnone" width="600" caption="お客様の声"][/caption]

なにはともあれ終わっただけでこんなに嬉しく思える仕事は久しぶりです。いやー、すっきりすっきり。

Nov 9, 2010

忙しかった10月と「ヤリガイ」について考える

今年で社会人10年目になる。毎日仕事をしてお金を得るという生活を10年近くもしていることになる。先月はその10年の中でもっとも神経を使う局面が続いた。目つきが悪くなるという外見の変化以外にも、歯医者をさぼりだす、図書館の本を滞納する、家が汚れる、運動しなくなる、肌が荒れる、独り言が増えるなどの忙しい時の悪い癖が全て吹き出した。

あらためて仕事をすることの難しさを感じるけれど、仕事にやりがいはあるし昔の自分よりは幅も奥行きも増しているはずである。

って所まで書いてふとおもったのだが、この「ヤリガイ」というのは河原に積み上げた石のごときぐらぐら揺れる言葉だと思った。理由はうまく説明できない。ただ僕は「ヤリガイがある仕事をしたい」という人よりは「楽しい仕事をしたい」と考える人と一緒に仕事をしたいと、そう思うのである。

この螺旋が途切れたらまた落ち着いて考えてみたいと思う。

[caption id="attachment_2295" align="alignnone" width="600" caption="空き缶達。バレル缶ってのがおもしろくて撮った1枚"][/caption]



[caption id="attachment_2293" align="alignnone" width="600" caption="べガス?ダラス?の青い空"][/caption]

同期の結婚式でまさかのナイアガラ 。ナカジおめでとう!!!


[caption id="attachment_2296" align="alignnone" width="600" caption="かつてはジャガイモだったなにか"][/caption]

Sep 28, 2010

結果報告: 走りました

約3ヶ月ほど前にエントリー「決意表明:走ります」に書いたとおり、第3回菅平スカイライントレイルランレースに参加しました。19kmを2時間43分で完走。何人中なのかはわかりませんが25位という満足できる結果でした。

コースは厳しい登りあり、平地あり、崖あり、登山道あり、牧場あり、笹藪あり、岩場ありと本当に自然の中を走った感じがしました。僕が長時間走ることが嫌いな理由の1つは退屈だからというものですが、今回は景色がめまぐるしく移ろって飽きませんでした。

直前のコース変更により15kmが19kmになるという初心者には悪夢のような出来事はあったものの、終わりよければそれでよしです。

[caption id="attachment_2285" align="aligncenter" width="448" caption="ゴール後の空はとくに青く綺麗だった"][/caption]


ずっと近くに住んでいて身近なはずの菅平の新たな魅力を発見出来たのがよかったです。
またこんな秋晴れの日に仲間を誘って、今度は同じコースをのんびりハイキングしたいと思いました。

Sep 25, 2010

カメラ狂いの曾祖父の戦争

祖父が学徒出陣した話は、1つ前のエントリー「祖父と戦争」に書いたとおりである。
このエントリーでは酒に女に骨董にカメラにと放蕩を繰り返した曾祖父が、実は戦争中にその趣味でずいぶんと村人に感謝されたという話をしたい。

[caption id="attachment_2255" align="alignnone" width="600" caption="出征前の記念写真(左から祖父の姉、祖父、曾祖母、曾祖父)"][/caption]

この出征前の家族写真を見たときに、跡継ぎ息子を戦争にとられようとしているのにリラックスした笑顔の曾祖父の表情がすこし気にならなかった。 もしかしてこれで心置きなく遊べると思っていたりして? 母親にたずねたところ、曾祖父には曾祖父の戦争のエピソードがあるということがわかった。

戦中に曾祖父は戦争に行った留守家族を訪ねて写真をとったのだという。もちろん戦地の兵隊さんに家族の写真を届けるためである。
祖父の残した大量の乾板の中にはそういった「戦地の家族への笑顔」がたくさんのこされている。

その一部を紹介したい

[caption id="attachment_2272" align="alignnone" width="600" caption="はぜかけの稲の前で"][/caption]

[caption id="attachment_2273" align="alignnone" width="600" caption="干し柿?"][/caption]

[caption id="attachment_2274" align="alignnone" width="600" caption="小さい子供を残して出征した家庭だろうか"][/caption]

[caption id="attachment_2275" align="alignnone" width="600" caption="立ち方も似てしまうよね。家族だから。"][/caption]

[caption id="attachment_2276" align="alignnone" width="600" caption="右端に照れくさそうな少女"][/caption]

[caption id="attachment_2279" align="alignnone" width="600" caption="他にも多数"][/caption]

どれも農村の人々のかざらない笑顔と生活をそのまま伝える写真である。当時の写真は、人生の節目に一張羅をきて街中の写真館にいって写真をとってもらうというようなビッグイベントであるがゆえ、曾祖父が撮った写真は資料価値があるということで地元の市立博物館で特別展が開かれ、めぼしい作品は冊子にまとめられた。

その巻頭に祖父はこんな言葉を寄せている。
『太平洋戦争の末期に、父が村中の出征兵士の留守家庭を精力的に回り、戦地へ送る写真を提供していたことは、私は留守で知りませんでした。然し戦後の村人の間では、戦時中の好ましい話題として語られ、私にまでお礼をいわれました。(中略) こんなに村内を隈なく回ったのは、妻は「一人息子を戦場に送っている父の気持ちがそうさせたのでは」と言います。思っても居なかった妻の説も、頷けるところがあるような気が致します。』

どうしようもない遊び人の曾祖父も一人息子を思い、他の出征兵士を思い、村を駆け回っていたのである。

Sep 24, 2010

祖父と戦争

ここに一枚の写真がある。

歴史の教科書などにありがちな、変哲もない出征兵士を見送る写真だ。ただし見送られているのは僕の母方の祖父である。

[caption id="" align="alignnone" width="600" caption="右に立つのは両親である曾祖父と曾祖母"][/caption]

祖父が招集されたのは昭和18年、いわゆるひとつの学徒出陣というやつである。相模原の陸軍通信学校の兵科に入学し通信兵としての教育を受けた。その後満州に渡り、電信8連隊に所属した後、希望が通って北海道の室蘭通信所に赴任した。終戦時は室蘭通信所長を務めていたという。 曾祖父のアルバムには、祖父の運命を変えた一枚の紙切れも乾板写真として保存されている。一部モザイク。



[caption id="attachment_2266" align="alignnone" width="395" caption="入営を命ず"][/caption]


祖父は今も存命で、しかも元気である。ただし戦争の話をしたがらない。孫はもちろん、娘にもめったに戦争の話をしないという。

そんな祖父が珍しく思い出を語ってくれたことがある。正月にお屠蘇を飲みながら、太平洋戦争の時に日本軍の暗号が米軍に解読されていたってのは本当なのかを質問してみた時の事だ。

『大分前から、海軍の暗号書がとられたという噂は中でもあったな。。。』
『終戦の1年前くらいから、今度は陸軍の暗号書も漏れたんじゃないか?どうもおかしいぞ。って話があったよ』

祖父の記憶は鮮明で、僕は慌ててメモを用意した。
『通信兵は「暗号書」と「鍵」ってのを持たされていてだな、でも終戦で引き揚げてくるときにはそれを燃やせという指示が出た。』
『燃やせる場所が無くてだな、引き揚げるときの室蘭駅の駅長室のストーブを借りて焼いただ。』
『とっておいたらよかったかなぁ。』
元通信兵ならではの戦争の話、娘である僕の母親も初めて聞く話であったらしい。

祖父は終戦後、故郷に戻り、同じ村の女性を嫁にもらい、そこに母や叔父、伯母が生まれた。 祖父が満州で死んでいたら、シベリアに抑留されていたら、室蘭で死んでいたら、僕はこの世に生まれなかったことになる。

戦争がどうこうは置いておいて、祖父には生き抜いてくれてありがとうとしか言えない気がする。

[caption id="attachment_2258" align="alignnone" width="600" caption="子供の頃の祖父と当時としては珍しい自転車"][/caption]

そして改めて写真の説得力の強さに驚かされてます。

カメラ狂いの曾祖父が残した写真を貼ってみる

僕の曾祖父というのは家が傾くほどに遊び倒した、度を超えた趣味人であったそうだ。曾祖父の趣味の1つはカメラであった。ここでは曾祖父が残した写真の中からいくつかを淡々と紹介したい。

[caption id="" align="alignnone" width="454" caption="曾祖父(中央)と祖父(右)"][/caption]

[caption id="attachment_2239" align="alignnone" width="600" caption="明るい農村"][/caption]

[caption id="attachment_2243" align="alignnone" width="600" caption="鎌倉の大仏、今より周りがすっきりしている。"][/caption]



[caption id="attachment_2241" align="alignnone" width="454" caption="木村カエラを彷彿とさせる少女"][/caption]

[caption id="attachment_2242" align="alignnone" width="600" caption="座り姿にも風情がある旦那衆"][/caption]



[caption id="attachment_2244" align="alignnone" width="600" caption="これはどこだろう。東京のどこかかかな?"][/caption]



[caption id="attachment_2245" align="alignnone" width="458" caption="外国っぽいけどこれも多分東京。"][/caption]



[caption id="attachment_2246" align="alignnone" width="600" caption="約100年前のギャル"][/caption]

自分が撮った19世紀の乾板写真がデジタル化されインターネットで世に出るとは曾祖父もあっちの世界で驚いているに違いない。

破天荒な曾祖父とその息子である僕の祖父の話はいずれブログに書きたいと思う。

Sep 3, 2010

総合火力演習の思い出

晴れ渡る御殿場の空、僕は2人の同僚とショーの開始を待っていた。
目の前には白い雲をまとって悠然と富士山がそびえていた。
まだ10時だというのに情け容赦なく日差しが僕らに絡んでくる。
ポカリスエットで喉を潤しながら「富士山は近すぎると姿に風情がなくなってよろしくない」などと一人思っていた。

[caption id="attachment_2220" align="alignnone" width="600" caption="90式戦車"][/caption]

やがて50m先の広場に鷹揚な感じで90式戦車が走りこんできて、僕らに背を向け、2km先の目標に対戦車りゅう弾を放った。
腹に響くような「ドスーン」という音がし、一瞬の静寂の後に目標が黒煙に包まれる。
ものすごい殺傷力をひめた兵器なのだろうが爆発はあくまで爽やかで暴力性がない。一風変わった花火大会と理解して、その後のミサイルやら機銃やらヘリコプターやらを堪能することにした。

横では後輩が露店で買ってきたソーセージを食べていた。それを見てコンビニでかってきたキノコの山を思い出した。
開けてみると、そこには目を覆いたくなる光景がひろがっていた。イチゴは溶け乱れ、キノコはいりみだれる。あぁキノコの山。

今日虚空に向かって放たれた火力の、あの膨大なエネルギーは、時空の歪みをたどって、僕のキノコの山を殲滅した。
そう考えるとすべてがうまくつながる。キノコ無念。

[caption id="attachment_2227" align="alignnone" width="600" caption="スタッフがおいしくいただきました。"][/caption]

総合火力演習の写真


[caption id="attachment_2222" align="alignnone" width="300" caption="総攻撃。上空のヘリと、地上の戦車の数がすごい"][/caption]

[caption id="attachment_2223" align="alignnone" width="300" caption="ヘリコプターは車もはこべるんです。"][/caption]

[caption id="attachment_2235" align="alignnone" width="600" caption="人の多さをパノラマで"][/caption]

ちなみに


総合火力演習は陸上自衛隊が大量に実弾を豪快にぶっ放す様を一般に公開するイベントである。チケットは無料であるが非売品で、抽選で手に入るのだが倍率が高いという。いつかみてみたいとは思っていたのだが、今年はたまたま陸自の友達にチケットをもらえたのである。ありがとう、つねっち。

Jul 5, 2010

決意表明:走ります

9月の終わりに菅平高原で行われるトレイルラン15kmにエントリーしました。

そもそも「ジョギング」「ゴルフ」「ワインを飲んでうんちくを語る」の3つだけは絶対にするまいと固く心に誓って30年以上生きてきたわけですが、こうなってしまった以上はきちんとゴールしたいと思います。

9/25に山道を15km走るという目標を考えて逆算すると、、、
9月上旬 皇居3週(15km)を完走、林試の森公園(山道に近い)を一定ペースで1時間走る
8月上旬 皇居2週をそこそこ走れるレベルに。会社から家まで(11km)を完走
7月中旬 皇居1週(5km)を走り切る
という感じでハードルを越えて行けば、まぁ行けるのかなと。

今週末は道具を買ったり、ついでに水泳にいってみたりしました。
[caption id="attachment_2214" align="alignnone" width="300" caption="区民プール"][/caption]

さぁて頑張ります。林試の森公園を一緒に走る人も募集中。

Jun 23, 2010

THE COVE(イルカ漁反対映画)を見てまとめたメモ

イルカ漁に反対する映画"THE COVE"という映画があるが、なぜか日本では映画館上映されない。ネットで限定配信もされたようだが、僕は見られなかった。そんなわけでDVDを買って見てみた。



感想はいずれ書くとして、映画はいろいろな意味で多くの人に見てもらいたい内容だったので、見ながらとったメモをブログにのせてみる。

注意:
・基本的には映画の雰囲気をふんわりつかむためと割り切って読んでください。内容は僕が聞き取れた所だけ、しかも一度パッと見ただけなので甚だ心もとない。もし既に見た人がいらっしゃったら指摘は有り難く受けるし、修正します。
・ミステリーでもないですが、ネタバレとかそういうのを気にする人は読まない事をおすすめ




シーワールドは実はイルカの敵


海洋生物に関するカンファレンスをサンディエゴで行おうとしたが、Richard O'Barryの基調講演が直前でスポンサーから却下された。イベントのスポンサーは「シーワールド」だった。海洋生物に関する研究はシーワールドのような営利企業のスポンサリングが重要であるとのこと。

Richard O'Barryはイルカ漁に反対する活動家、ニカラグアやアメリカで不当に扱われているイルカを逃がすなどの「救出劇」を行っている。活動が過激なあまり何度も逮捕されている。同じような活動をしていたJane Tipsonは殺された。活動家になる以前はわんぱくフリッパーとして知られるテレビシリーズでイルカの調教している
リチャード「イルカは新しい環境のシンボルだ。」
リチャード「イルカが笑っているというのは大きな誤解。音でもコミュニケーションするがゆえに音に敏感。水族館などの閉鎖環境では循環機器のノイズが原因で死んだりする。本当にデリケートなんだ。」

イルカの性質を利用した太地町の漁


音に敏感なイルカの性質をつかって音で威嚇しおいつめる。漁の様子が映像で紹介される。

  1. 20隻程度の漁船、船の両舷から海中に鉄のパイプをのばす。漁師がパイプを叩いてノイズを出し、イルカをおいこむ。

  2. 逃げないように、沖側にネットをはる。一晩待つ。

  3. 翌朝シーワールドの担当者達が来て、見た目の良い、若い♀のバンドウイルカをイルカショー用として持って行く


太地町はショー用にイルカを世界各国に輸出しており、一頭あたり最大15万ドル程度で取引される。
このような方法で23000頭のイルカが毎年捕獲されている

IWCとイルカ漁の関係


誰か: IWCはクジラ保護に注力しているが、イルカはその対象外である。それはおかしい。
森下丈二の紹介。水産庁の官僚、ハンサム、日本の国益を代表している。他国代表の質問に居眠りしている場面が繰り返される。悪者として描かれる。

イルカ漁を隠したい太地町の人々とクルーの軋轢


カメラは太地町の漁師の人たちにも遠慮なく向けられる

  • カメラを隠そうとする人

  • 女性活動家を浜から押し出そうとする人

  • 帰れと怒鳴るように叫ぶ人

  • クルーのカメラに対して中指をたてて見せる人


クルー「見せしめだろうか、既に息絶えた子イルカの喉を斬ってみせた漁師がいたときには、腹がたった」
2003年シーシェパードはイルカ漁の実態をカメラに収めるため、太地町に人を派遣。イルカ用ネットを切断した。
公式に使途の交渉なども散発的に行われているが、市側からは立ち入り禁止区域を押し付けられたのみ。
漁の一部始終をカメラに収めたものはいない。

イルカ漁の全貌を撮ってやる大作戦


颯爽と太地町にイルカの撮影のためにあつめられたエキスパート達。

  • 岩にカモフラージュしたカメラ、水中にしかける水中カメラと録音機

  • 素潜りのエキスパートたち、水中にカメラをしかける担当

  • ラジコンのヘリコプターやおもちゃの飛行船にカメラを搭載。


メンバーのひとり「飛行船やヘリコプターを使う1つの理由は逮捕された時の印象アップだよ。」
47個の黒いトランクを日本に空輸、いきなり怪しまれてホテルの前に監視がつく。
リチャード?ルイ?「誰に尾行されいるのかわからなかったので、英語をしゃべれる日本人に聞いてみたら、『警察だよ』と教えてくれた」

まずは正面から網の近くによってみると、太地町の漁師に阻まれる。あきらめて一行が帰ろうとした頃に、網の向こうから傷ついて血だらけの子イルカが泳いできて力つきる。それを見て泣き崩れる美人ダイバー夫妻、談笑を続ける漁師との対比の構図。

イルカの肉は水銀に汚染されてイルカ?


リチャード「太地町の人々はこれは彼らの伝統で、おまえらが牛を食べるように、我々はイルカを食べている」と説明している。
東京(渋谷)でイルカ漁について聞く場面、「日本で毎年2万3000頭のイルカが殺されている事をご存知ですか?」
みんなその事実を知らない

リチャード「日本のメディアはイルカ漁を隠している。なぜならイルカは食物連鎖の頂点にいるため水銀に汚染されている事実を公にしたくないから。」
水産省の担当者 MORONUKI HIDEKI 「イルカを食べ過ぎない方がよいです。ただイルカの肉には貴重な栄養が含まれていますが」
IWC日本派遣団のお抱え弁護士(外国人)「市場にでまわる日本の基準値をオーバーするような汚染物質は含まれていない。日本の基準ではね。」
北大 遠藤哲也 「太地町で購入したイルカの肉から2000ppmの水銀が検出された。推奨値は0.4ppmであるにもかかわらず」

誰もたべない、イルカ肉はどこにいったのだろうか?


スコット・ベーカー「イルカはスーパーでクジラ肉として売られている。水銀はWHOの推奨値の20倍である」
唐突に水俣病の紹介。かつて水俣市で水銀の多量摂取に寄る疾病が流行したことを紹介
水俣病患者の家族の訴え「首はすわらん、耳は聞こえん、口きけん、味はわからん」
前出の水産省の担当者 「いるか肉によって水銀中毒がひきおこされ、水俣病のような自体が発生する可能性について)ありえないでしょう」と一蹴
リチャード「こういう危険(水俣を指してる?)を避けるためにも太地町の漁を辞めさせる必要がある」

イルカの声をきこう


反捕鯨の風潮を作り出したのはクジラの声を録音した1枚のレコードだった。「クジラは歌う」という事実が活動家を燃えさせた。
網にとらえられたイルカの声を録音して人々に聞かせれば同じ事がおきるのではないか?

深夜の水中マイク設置作戦はギリギリ成功。2人の警備員があっという間に近寄ってきた。

その間リチャードはホテルの従業員と市の職員風の人に尋問にあう
市職員「夜中にこそこそOPSの人たちがどこかにいったけど?」
リチャード「OPSと私は関係ない」としらを切る

水中に仕掛けたマイクを引き上げ、みんなで中身をきく。一頭のイルカの声だけが鋭く響く。
イルカの声は苦しんでいるようにも聞こえた。涙ぐむリチャード。

イルカは他の魚類を大量に食べてイルカ? 日本の戦略


リチャード「漁師は政府からイルカを減らす事で他の資源を保護していると言われているがそれは根拠がない」
2006年のサイエンス誌のとある論文を挿入「今のペースで漁業を行うと40年で立ち行かなくなる」
築地場内市場が写り、マグロが次々と取引され、買いたいされ、消費されて行く場面が早回しで続く。

1986年に商業捕鯨が再びIWCで許可された


IWCで日本に賛成するコメントを述べるセントルシアなどの代表団とそれを満足げに聞く森下氏
誰か:「日本の代表団は財政的に破綻した小国に、金銭援助の見返りに表をあつめている。」

イルカ漁を正統化するために、学校給食にイルカを採用させようという太地町が取り組みを薦めているが、これは町内でも議論が分かれているという。
太地町に住む5才と7才の男の子の父親「 給食は全部食べないといけない。学校給食にイルカは避けるべきではないか」
勇気を振り絞った発言の様。日本には「出る杙はうたれる」という諺があるが、彼も叩かれてしまうのか?

入り江でのイルカ漁をとらえた(映画のクライマックス)


夜間に侵入禁止区域に忍び込んで
・MandyとKirkは海の中へカメラとマイク設置
・Simonは岩に似せたカメラを設置
準備万端

岩陰のカメラからは夜明け前の浜辺で、タバコを吸いながら談笑する漁師達。画質音質ともにかなりクリア。

狭い区域に追い込まれるイルカ、20人程度の漁師達、船の上から細長い銛をかまえる。
カメラは水中カメラにスイッチ。イルカの声が聞こえる。やがて水色が上から赤黒くそまり、すぐにブラックアウト。
ここで湾を俯瞰するカメラに切り替わる。真っ赤にそまった海と黙々と銛をつきたてる漁師
ときおり最後の抵抗とばかりにじたばたするイルカが写る
最後は漁師が暖をとるために焚いたたき火を赤い海の水で消しさって行く




[caption id="attachment_2202" align="alignnone" width="600" caption="血の海"] [/caption]



ナレーションはなく、画面が強調される。

再びIWCの会議場


森下氏「イルカクジラを捕獲する方法は近年改良されており、短い時間で少ない苦しみで殺す事ができる。」
リチャード、会議場の外から会場に乱入する。お腹には液晶モニター、流れているのは太地町の漁で赤く染まった海

[caption id="attachment_2203" align="alignnone" width="300" caption="IWCに突撃したリチャード(リック・オバリー)"][/caption]

終幕


イルカ漁は毎年9月に行われる。あなたが動かない限り
イルカ漁を止めたい人はSMSするか takepart.com/thecoveにアクセス

ちなみにDVDで見てみるという方はこちらから(英語のみ、リージョンコード北米)
LINK

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Jun 12, 2010

鼻毛革命を起こしたNOOK(ヌーク)

*NOOK

ヒゲを抜くための毛抜きが欲しいとおもってデパートでNOOK(ヌーク)という面白い形の毛抜きを買ってみた。

[caption id="attachment_2180" align="alignnone" width="600" caption="パッケージからして毛抜きっぽくない"][/caption]

[caption id="attachment_2190" align="alignnone" width="600" caption="頭が丸い"][/caption]

普通の毛抜きと違って先が丸くなっているので、眉毛を整えるとかそういう細かい作業をする人には不便かもしれない。僕のように飛び出したヒゲを抜くのには先が尖っていると肌を刺さないように気をつかうこともないので、すこぶる快適である。

*鼻毛抜きとしてのNOOK
そして、この形状を眺めて「もしかして。。。」と閃いたので鼻毛を抜いてみた。何も考えなくても面白いように毛が掴める!抜ける!!!
ちなみに鼻毛は今までどうしていたかというと、こ んな形の専用鼻毛カッターをしばらく使ったが手入れが面倒なわりに切れない。諦めてここ数年は小型のハサミできっていたのだけど、ハサミでの鼻毛処理は地雷処理並みの集中力を要求される危険な作業である。鼻血と隣り合わせの緊張感に疲れ果て、あきらめかけたその時に現れた救世主がNOOK(ヌッ ク)だったのだ!

[caption id="attachment_2183" align="alignnone" width="600" caption="面白いように抜ける鼻毛(および他の毛)"][/caption]

鼻毛革命と呼ぶに値する快適さである。毛抜きという、一件して改善の余地がないシンプルな道具も角を丸くするだけで、これだけ可能性が広がるのだから、恐れ入る。久しぶりに感動した。

この感動を皆さんに届けたく、Amazonの商品紹介のページを見たら、鼻毛もいけます的な事が書いてあった。1つ2000円という手頃な値段で、カラーバリエーションも豊富なのでこの機会にお一ついかが?ということでAmazonへのリンクを貼っておく。

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Jun 11, 2010

僕らのアウトドアライフ (その2)

高校の時の部活、アウトドアライフ班(通称ODL)の話の続きです。後輩のニッシーから貴重な写真の提供があり、一部を使ってます。懐かしいぜ。

*ODLの実態
OutDoorLifeの名が示す通り、ODLのメインの活動はキャンプだったと思う。班室にはODL班備品の6人用ドームテント(割と性能よい)、コールマンのランタン、コッヘルセットなど一通りのキャンプ道具がそろっていた。春から秋は天気を見つつ、月に一度くらいキャンプにでかけた。いやもっと少なかったかもしれない。

[caption id="attachment_2166" align="alignnone" width="540" caption="河原で"][/caption]

近辺の山に荷物を運び上げ、焼きそばを作り、マシュマロを焼いた。夜遅くまで酒を飲み、火を囲んで語った。先生の悪口から将来の夢、先輩の失恋まで話題は尽きなかった。

ど田舎の町からさらに1時間ほど登った山頂なので夜には星座を探すの難しいほど大小の星が空を埋め尽くす。そんな空の下で、前島先輩が自分を彦星に例えて、織姫がどうこうと真顔で語っていた。笑いをこらえるのに必死だった。狸が現れ、蛾がランタンに特攻をしかけ、鹿は電信柱の陰から様子をうかがうストーカーの様にじとっと我々を観察していた。

そしてどんな時でも朝が来る。真夏でも明け方の森の中は静かで、空気が芯から冷えきっている。朝霧の中、重い体を鞭打って、前の夜の乱痴気騒ぎの後片付けをする。『宴の後」という言葉の持つ意味を噛み締めつつゴミ拾いをした。
ボーイスカウトではとうてい許されない、だらけたキャンプだった。誰も口にはしないが、椎名誠の「わしらは怪しい探険隊 (角川文庫)シリーズ」の東ケト会の破天荒さに影響を受けていたと今になれば思う。



*頑張らない、ゆとり教育の先駆けODL
ODLは本来、キャンプの仕方などを身につける事ができるという触れ込みであった。だが、僕はもともとボーイスカウトで小学校からキャンプにあけくれていた。おかげで中学生の時には既に、8人用のテントを1人で張るとか、木を組み合わせて竃をつくるとか、あたりまえのようにできたのである。安藤にしてもキャンプでは相当にベテランだった。僕らに新しく身につけるものはなかった。
やがて僕らが2年生になり活動の内容を決めるようになるが、いたずらに高度なキャンプを目指すようなことはしなかった。安全かつ簡単に登れる山を難しいシーズン、難しいルートを選んで登るのが登山家であるのなら、米を炊くのが面倒な時には「サトウのご飯」を持ち込むのがODLであるという暗黙の了解があった気がする。いや、なかったかもしれない。

その後、セクシーというニックネームの、全然セクシーじゃない男がODLに加わった。渡来僧が日本に仏教をもたらしたように、セクシーはODLに麻雀をもたらした。僕らは麻雀をした。ニッシーという後輩が入った。安藤に輪をかけて寡黙な後輩だった。放っといても自分ですくすく育つ子だった。まきさんという心優しい男とその弟のまさきが加わった。まきさんはランドナーという長距離を走るための自転車を持っていて、刺激を受けた僕らは一泊二日のロングライドにでたりした。

*喫茶ポプラでインダルジ!

[caption id="attachment_2165" align="alignnone" width="450" caption="懐かしいポプラ ”この時大学2年くらいで、班室に忍び込みODL日記とアルバムを回収した時のものです。byニッシー”"][/caption]

平日の放課後は班室にたまるか、駅前にある「ポプラ」という喫茶店で時間をつぶすのが定番だった。駅前にひっそりと佇む個人経営の喫茶店だった。マスターは常にテーブルの灰皿には消臭のためにコーヒーの出がらしを乾燥させたものを敷き詰めていた。消臭効果があるからと言っていたが、本当だろうか?
テスト前には高校生らしくポプラで勉強をしたりもした。語呂単という語呂合わせで覚える英単語の本が流行った。「indulge(快楽などにふけるの意)」の語呂合わせはこんなのだった。
「インド主(インドアルジ-> インダルジ -> indulge)は淫行に耽る」
本にはご丁寧にターバンを巻いたインド風の人がにやにやなにかをしている挿絵がついていた。インドでまじめに生きる方々、特にインド主の皆様に対してあまりに失礼な語呂合わせだ。
淫行のインパクトで僕らはindulgeという単語を完全にものにしたが、残念なことにテストに出なかった。それどころかmあれから10年以上、僕は人並み以上に英語に触れる仕事をしているが”インド主”には一度たりとも出くわした事がない。そもそも覚える必要がある単語だったのだろうか?

というわけでODLという名前のわりに、キャンプだけをしていたわけではなく、逆に屋内でダラダラしていたことが多かった。誰かの家で徹夜で麻雀したり、長野大の女の人と合コンしたり(!)、軟式野球班と険悪な雰囲気になったり、演劇班の劇を手伝ったりとヒマに任せていろいろな事をした。いろいろな事をしたので自分の過去を語る時に「OutDoorLife班に入っていた」と言い切る事に躊躇するのだとおもう。

*その後
高校卒業後、僕らはそれぞれ進学のため故郷を後にした。ODLのメンバーも今では結婚していたり、子供がうまれていたり、東京にいたり、上田にいたり色々な人生を送っているらしい。連絡も疎遠になった。

班長だった安藤は庭師という変わった職業を選び、その仕事の模様をブログに綴っている。地元では評判がすこぶるよく、僕の身の回りでは将来もっとも情熱大陸などの番組にとりあげられそうである。コンクリートに囲まれたオフィスで、ブログを通して、同じ釜のペヤングを食べた彼のぱきぱきとした仕事を見ると励まされる気がする。きっと他のODLのメンバーもそう思って自分の道で頑張っているのだと思う。

[caption id="attachment_2170" align="aligncenter" width="440" caption="ODL ふぉえばー"][/caption]

Jun 4, 2010

僕らのアウトドアライフ(その1)

「部活なにやってた?」と聞かれるとちょっと困る。

「中学の時は剣道部、高校の時はボーイスカウト、大学は学園祭の実行委員をやってた。」と答える事が多い。剣道もボーイスカウトも学園祭も打ち込んだのでこれは嘘ではない。ただ、説明が長くなるので「高校の時はOut Door Life班に入っていた」という事実を伏せているだけである。大切な青春の1ページである高校時代のOut Door Life班(通称ODL)についてちょっと書いてみたい。

*入部
中学3年間で剣道にとことん嫌気がさしていた僕は高校で剣道を続ける気はなかった。そして入学当初の班活紹介でOut Door Life班というキャンプにくり出すだけの班活動があることをしった。(ちなみに僕の出身高校含め、その近辺ではなぜか部活を班活と呼ぶ。班活、班長、サッカー班、野球班である。)
1年生向けのオリエンテーションで、それぞれの班活が前に出て5分程度の活動紹介をする。ユニフォームを着てばしっと活動を紹介する班が多い中、ODLは私服の3年生3人くらいがドームテントをもってきてなにやら喋っていた。周りの1年生も戸惑う、その発表の様子は僕の好奇心を多いに刺激した。
入部希望者は部活毎に指定された場所に訪れると上級生が詳しい説明をしていることになっていた。僕は第2理科室にODL班の説明を聞きにいった。主に3年生がアルバムや旅行記を見せてくれた。毎年ではないが、無人島にキャンプにいったりした代もあるとか、オリエンテーションのぼそぼそした説明からは意外なほどまじめな活動をしているようだった。
*もう1人の1年生
第2理科室には僕以外にもう一人だけ1年生がいた。あまり喋らない安藤という人だった。愛想が悪いのではなくシャイな奴だということは後から知った。
この日、確か近所の公園にみんなでくり出し、あまり喋らない安藤が初めて僕に話しかけてきた。
「火貸してくれない?」
あまりに唐突な第一声だったが、愛用のZippoを貸しつつ、なんか仲良くなれそうだと安心した記憶がある。
*自由のはじまり
安藤とは対照的に陽気で面倒見がいい浅黒い男前の3年生がいた。前島先輩という。
「迷ってるなら、絶対入った方がいい。ODLはいい奴が多いし、大学のサークルのようだ。とにかく自由だ。」
応援団長もしている前島先輩は熱い男だった。前島先輩の勢いに押されたわけではないが、僕はなんとなくボーイスカウトとは違う緩い雰囲気が気に入っていた。
「そうですね。ODLに入ります。」
そう口にした。前島先輩は僕の決断に喜び、讃え、そして最後にこう付け加えた。
「俺はODL班じゃなくて、天文気象班だけどね。」
ODLはどこまでも自由だった。

[caption id="attachment_2160" align="alignnone" width="600" caption="班室"][/caption]

(長くなったので続く。)

Jun 3, 2010

夜中に携帯が確変に突入することについて

携帯電話をつかって最後に誰かに電話をしたのはいつであったか?そのくらい電話をする機会は少ない。そして携帯に届くメールは日に数通である。つまり基本的に音がならない僕の携帯であるのだが、時々狂ったように受信を始めることがある。これを僕は携帯の確変モード突入とよんでいる。

確変モードの根源は大抵において、「姫」というニックネームのある同級生である。「姫」が下々に「バーベキューしない?」とメールをする。このとき仲間全員をCCに入れて送信するという風習がある。

たとえばAさんからB,C,D,E,Fさんへの飲み会のお誘いに対して、全員がAさんに参加の可否を連絡し、ついでに近況を連絡し、それにAさんが返信し、さらにBさんが話に加わり、それを横目にEさんとFさんが別の飲み会の話をする、というような無限連鎖状態である。これを食らうとメーラーはこんな感じになってしまう。


[caption id="attachment_2146" align="alignnone" width="526" caption="無惨にうめつくされたインボックス"][/caption]


これはパソコンなので見るのも、削除するのも楽だけど昔は普通の携帯電話だったので、埋め尽くされたメールを見て青ざめたものである。仲間の中には「彼女からもらった、何度も読み返したいとっておきメール」が押し出される様に削除されてしまったというような悲しい経験をしたやつもいる。

みんなが結婚したり、子供ができたりとなかなか携帯が確変に入ることも少なくなってきたが、昔からの友達のあいかわらずさを実感出来る機会として僕は実は楽しみにしている。

年に2回くらいまでならだけどね。