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Dec 14, 2013

コートジボアール戦記 (16000字)

西アフリカはコートジボアールの首都アビジャン。その中心部から車40分ほど走った郊外のマンション。時刻は11月28日夜9時をまわった。

暗くて狭いマンションの受付の部屋、傍らに置かれた椅子に僕は途方にくれて座り込んでいた。受付には2人の現地の若い女性従業員が、こちらの絶望を気にもとめずフランス語で楽しそうにおしゃべりをしている。天井には、日本ではもはや見かけない小ぶりのブラウン管テレビがマンチェスターユナイテッドとレバークーゼンの試合を垂れ流している。前半の途中、ユナイテッドは得点を重ねているようだ。香川の調子がよいことは、何度となくリプレイに登場することから分かる。

僕はこの夜を乗り切るため、毛布をもらいにきた。電話で頼んだが、毛布(blanket)という英語は通じなかった。だから身振り手振りで毛布を説明しにやってきたのだ。僕の拙くも熱のこもったジェスチャーで従業員には意味がつたわったようだ。「アァー!!!」といいながら小走りに別の部屋へ走っていったのである。

5分ほどで彼女が戻ってきた。誇らしげに、手に枕をもって、、、

違う。惜しいけど、それじゃない。ブランケットなんだ。かけて寝るものなんだ。身振り手振りの限界を感じた僕は、メモ用紙を借りてそこにベッドを描き、まくらを描き、そして毛布を描いた。これ!ブランケット!カケテネルー!

「アァー!!!」 僕の絵は言語の壁を超えた。彼女は今度こそわかってくれた。そしてまた小走りで受付の部屋を出て行く。

しかし待てど暮らせど彼女が戻ってこない。サッカーは前半が終了し、ハーフタイムに入り、もう後半が始まっている。僕はいつのまにか座り心地の悪い切り株のような形状の椅子でウトウトしていた。忘れ去られたのか?と疑い始めたその時、突如「バタン」という音がして、彼女が戻ってきた。疑った自分を恥じつつ、椅子を立つ。

満面の笑みをたたえた彼女は僕に歩み寄り、、、そして、シーツを手渡してくれた。

もはやシーツとブランケットの違いを説明する体力はなかった。2週間張り詰めた何かがきれた。「ウィー、ウィー、メルシー、メルシー、サンキューべリマッチ! ディスイズ ブランケット! ティスイズカケテネルー!」とお礼をいい、僕は毛布のかわりにシーツを持ってトボトボと同僚が待つ部屋に戻った。

なぜこの夜、毛布が必要だったのか? なぜアフリカのホテルではなくマンションに、しかも同僚ととまっているのか? そして何よりなぜ僕は切れてしまうほどに追い詰められたのか?

話はこの2週間前にさかのぼる。だいぶ長くなるが、まぁ暇な時に読んでほしい。

11月17日 22時 ジャカルタ→バンドン
僕は4人の見知らぬインドネシア人に同乗し、ジャカルタ国際空港から会議が行われるバンドンへと向かう乗り合いミニバンの車内にいた。外は熱帯気候だが車内は親の敵とばかりにエアコンがきいている。インドネシア人は基本的に陽気な人が多いが、車内では全員が貝のように黙っている。一番狭い後部座席につめこまれた僕は膝をかかえつつ、寝るにねれず車窓をながめていた。6年前に同じ道を走ったはずだが、道が新しく整備されていることに驚かされる。

走り始めて2時間ほどで、ミニバンはサービスエリアにたちよる。暗闇に照らされて浮かぶモスクがあり、スピーカーからはアザーンが流れ、まとわりつく熱帯の空気とともに、ここはインドネシアであると五感にうったえてくる。かくて長い長い旅が幕をあけた。



11月18日 バンドン
僕の仕事はサイバーセキュリティに関するものであり、国際会議に出席することは少なくない。たいていの事ではもう驚かない。ただ今回の会議はイスラム諸国会議機構の関連組織が主催であり、参加者は全てイスラム国家から集まっている。イラン、パキスタン、スーダン、ナイジェリアといった物騒なニュースに登場する機会の多い国々からも参加者が集まる。

会議では発言者は必ず「as-salāmu ‘alay-kum.」とはじめ、それをうけて出席者は「wa-‘alay-kumu s-salāmu.」と返す。人を呼ぶときはMr.ではなくBrotherを使う。そういう立ち居振る舞いの一つ一つが葬式仏教徒の僕にイスラム文化の重厚さをねじこんでくる。
よく知っているマレーシアやインドネシアの友人もいつもより意識してイスラム教徒としての振る舞いをしているように感じる。たとえば普段ヒジャブをしていないマレーシアの女性陣も今回ばかりは全員が着用し頭と髪を隠している。お陰で知り合いに「はじめまして」と挨拶をしてしまった。

信仰の面でも、言語も肌の色も僕は異物である。

11月19日 サイバーバンドン会議は夢か?幻か?
バンドンにはインドネシアで最初の大学であるバンドン工科大学があり、学研都市として名を馳せている。優秀なIT技術者が多く、それを頼りに多くのIT企業がここにオフィスを構える。例えばBlackBerryのアジアでの開発拠点もここバンドンにある。
一方で会議の主催者でもあるインドネシア人達には別の思いがあるようだった。言うまでもなく、この場所は1955年に反帝国主義、反植民地主義を掲げてアジアとアフリカから首脳が集ったバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の開催地である。バンドン会議はその後、アジアとアフリカで次々と独立国がうまれていく端緒となった。今、この地でサイバーセキュリティについてアジアとアフリカのイスラム国が手を結び、安定したインターネットの実現を推進していくきっかけを作る、そういう壮大な野望が彼らには確かにある。

会議の後に、出席者は全員バンドン会議で使われた建物を見学し、その歴史を目の当たりにした。



会議での自分のプレゼンがおわり、当然アルコールは提供されない歓迎パーティーを終え、部屋に戻る。軽くビールでも飲みたいと思ったが、部屋の冷蔵庫にもルームサービスのメニューにもアルコールはなかった。諦めて寝る。

11月20日 まだバンドン
この日も会議。終了後にパーティーが行われる。デザートをつつきながら、ステージで続けられる素人カラオケ大会を眺めていた。聞いたこともない歌の伴奏が流れた瞬間に仲の良いインドネシア人たちに突如として両脇を抱えられ、ステージに連行される。インドネシアでは国民の誰もが歌える、五輪真弓の「心の友」という曲を日本人の僕に歌わせたいということらしい。

困った。だって僕はそんな曲知らない。なんなら五輪真弓も名前しかしらないくらいだ。ハミングとテンションでやり過ごす。

11月21日 まだまだバンドン
凸凹ありつつもバンドンで無事に仕事をこなし、ジャカルタにもどるはずの朝のこと。ジャカルタから次の目的地タイへのフライトはお昼であり、朝8時にはバンドンを車で出発する必要があった。寝坊する心配から二重三重に目覚まし時計をセットしていたが、結果的にそれは必要なかった。朝5時に強烈な腹痛と下痢で目が覚めたからである。

異国で体調を崩したことは過去にも何度かあった。6年前のインドネシアでの下痢、5年前のブラジルでの貧血、2年前のミャンマーでの食あたりなどなど。どれも苦しかった
ただホテルに医者を呼ぶほどの状況は6年前のインドネシア、そして今回の2度だけだ。両者に共通するのはバンドンで食事をしたということくらいか。この地方の料理があわないのかもしれない。6年前にいくら我慢しても良くならなかったことを思い出し、医者を呼ぶ。下痢、そして熱があるらしい。もらった薬をのみ、水をのみ、トイレで1日をすごす。



11月22日 バンドンから華麗に出立
完治には程遠い状態で4時間の車移動(トイレがない)に耐えられるのか自信がない。しかし既に1日多くバンドンに滞在しており、もう1日先延ばしすると次の次の仕事にまで穴が空く。「次の目的地に向かう」「もう1日休んで様子をみる」「帰国する」の3択でギリギリまで悩むが、体が回復することを信じて、最初の選択肢を選ぶ。間違った選択だった。
バンドンから贅沢にタクシーを貸しきって移動する。体を冷やしたくないので、エアコンを切ってもらったので、車内は暑い。だが下痢の記憶が鮮烈すぎて、水を口にする気になれない。4時間のタクシーは便意と暑さとの闘いだった。

11月22日 23時 バンコクの空港
バンドンからジャカルタの4時間半の車移動とジャカルタからバンコクまでのフライトをなんとか切り抜け、バンコクに到着することができた。ここで同僚と合流する。日本から救援物資(正露丸とストッパ)を持参してきてくれた。ありがたい。
空港ラウンジには大きめの野菜が入ったコンソメスープがあり、久しぶりに固形物をたべる。優しい味がする。抗生物質をのみつつ、空港でしばし休息する。このあとエチオピアのアディス・アベバを経由してコートジボアールに向かう。

11月23日 14時 コートジボアール
長い空旅で体調を少し復活させ、コートジボアールにおりたつ。土の茶色さと日差しによる手荒い歓迎はいつものアフリカである。


バンドンからの42時間におよぶ長い長い移動の果てに、我々はやっと首都アビジャンの高級ホテルにたどり着く。チェックインしようとすると受付の様子がおかしい。予約が見つからないらしい。現地のパートナーがホテルの予約を自分がすると言っていたのだが、できていなかったのだ。
しかし42時間の移動の後に別のホテルに移動する気力と体力は今の僕にはない。治安がよくないのは知っているから、顔見知りの多い、会議が行われるホテルになんとしても泊まりたい。だいたい今だって下痢気味だ。そこで、お金は払うから開いている部屋に泊めるようたのんだが、なんと「満室」。そして近辺のホテルも全て満室。そんな馬鹿なことあるかと思うが、顔見知りのアフリカ人も現在のアビジャンの活況からして、満室は仕方ないとのこと。

現地の取引先の担当が世話を焼いてくれたおかげで、1時間ほどたってホテルが手配出来た。しかしそれは車で20分ほど走る郊外のホテル。見つかっただけラッキーだという。割り切れないが、しかたない。郊外へと向かうタクシーにのる。いつもはどんな状況でも微笑みを絶やさない旅慣れた同僚もさすがに閉口気味だ。

郊外のホテルにチェックインし、45時間ぶりにシャワーを浴びて生き返る。ホテルのロビーにあるレストランで夕食をとるが、賑わう雑踏と客層の悪さに緊張感は抜けなかった。
冷め切った豚肉をつつきながら「"Can you speak English?"はないよなぁ・・・」と同僚がぼやく。このホテルにチェックインしようとした時のことを思い出しているのだ。この国では最高級ホテルであっても英語が通じない。ホテルの受付でまったく鈍った英語で話しかけられ、聞き直すと「Can you speak English?」と馬鹿にしたような調子で尋ねられたのである。少なくとも客にそんな失礼な聞き方をする君よりは英語喋れるんだけどな、と言いたいところだが仕方ない。我々は滞在3時間にして、この街の厳しさを痛感していた。

11月24日 アフリカでの仕事
この日から我々が主催するトレーニングが始まる。そして顔見知りの仲間もそれぞれガーナ、ベニン、トーゴから集ってきた。この中のトーゴ人が我々のホテル予約を引き受けた張本人である。さっそく君のせいで大変な思いをしているのだから、なんとかして中心部のホテルに部屋を取るよう依頼する。彼はフランス語が話せる、コネもある。

そんな仕事とはかけ離れた交渉をしつつも、Show must go onならぬTraining must go onである。もはや下痢や微熱にかまう余裕はなかった。

この日の午後だいぶ様子がみえてくる。ホテル問題は当初想定していた以上に深刻だった。やはり会議が行われるホテルはおろか、都心のホテル全てに空き部屋がない。この時期いくつもの国際会議が開催されていて、なおかつ政府系のイベントも多く、あたってみたが本当に部屋がないそうである。

我々が滞在するのは残り5日。今夜は今のホテルに戻り、明日の夜からはこの街最高級のホテルに2泊だけ部屋が開いているので、そこに移るという案が提示された。
問題は未だ泊まるあてのない最後の2泊である。「それはまた明日以降調べてみるよ」とトーゴ人は楽観的である。治安と体調を考えたらホテルを移動なんていう面倒なことは極力したくないが、我々にはこれしか選択肢がない。

11月25日 陸の孤島の最高級ホテル
この日の夜、最高級ホテルにうつる。部屋は快適である。ちゃんと部屋に金庫も備えられている。エントランスに柄の悪い人もたむろしていない。これで一安心である。しかしこのホテルは都心から少し離れた場所にポツンとたっていて、近辺にレストランはおろかスーパーもない。おとなしくホテルの地下にあるレストランで7000円のディナーを食べる。

インターネット接続が若干改善したので妻とスカイプをする。とりあえずインドネシアのときと比べて体調は復活してきたことを報告する。妻が送ってくれた白い砂浜と美味しそうな料理の写真が今は目の毒だ。



11月26日
翌朝は4000円の朝食を食べて仕事に向かう。なお食事のクオリティは価格に見合うものではない。4000円の朝食と7000円の夕食を食べ続けるのはバカバカしいということで我々は、仕事がおわってから、車で15分ほどのところにあるモールに朝ごはんや水を買いに行くことにする。
この日は雨がふっていた。そしてこの雨で市内の道が水没し、車で15分のはずのショッピングモールに辿り着くのにたっぷり1時間半かかった。閉店間際のスーパーに滑り込み、水とチョコレートとパンを買う。決して安くない。
モールに併設のフードコートでディナー。よくわからない焼きそばのようなものが1100円。この国の物価は不可解だ。


11月27日 ついに我々は恥を捨てて大使館に駆け込むことまでを検討しだした。
食べ物と寝る場所が儘ならないストレスがたまり続ける。そして、こんな状況に我々をおいこんでおきながら、手助けをしてくれないトーゴ人への怒りが膨れ上がる。なお彼はのうのうと会議が行われるホテルに止まっているのである。
そんな極限状況のなか、我々はこの日トレーニングを無事終えた。成し遂げたというよりは生き延びたという感が強い。

感慨にひたる暇はない、仕事がおわったら即ホテルに戻り、翌日のホテル探しをする。まずは最高級ホテルに延泊を交渉。3秒で断られる。しかし彼らは我々の代わりに電話帳片手に市内のホテルにかたっぱしから電話をかけてくれた。フランス語は全くわからないが、部屋がないと断られているのは感じられる。
長いこと電話した末に、車で40分の場所にホテルではなくシェアハウス(マンション)のようなものがあるという。スイートタイプだがベッドは一つしか無い。「(ベッド一つだけど)どうする?」と聞かれれたので、「それでお願いします。」と即答。

ホテルのレストランでトーゴ人とこの街への恨みつらみを並べつつ、軽く食事をする。明日はチェックアウトしないといけないので、ビールを一本だけ飲んで部屋にもどり身支度をする。

11月28日
スーツケースにすべてを詰め込んで、朝のロビーで同僚と合流。これから同僚はそのマンションへ、僕は会議へと向かう。僕はこの日、プレゼンをすることになっていた。ホテルのスタッフが同僚をウィークリーマンションへ送り届けてくれるらしい。理由はよくわからない。治安があまりよくない地域なのかもしれない。実は予約ができていないのかもしれない。

1人スーツとネクタイという出で立ちで会議へ向かう。この日は今回の滞在で唯一、多くの関係者が集っている場に参加した。多くのコートジボアール人にあった。みんな陽気で、そして自分の国に誇りをもっていることを感じることができた。
プレゼンの持ち時間は20分。この手の会議にありがちな概念論ではなく、みんなですぐに取り掛かれる提案をした。反応は上々である。

昼ごはんを食べ、色々な人に挨拶をし、会場を去る。同僚の待つマンションへいざ出発である。しかし住所をつげてもドライバーは場所がわからないようだ。知り合った英語を少し話せるコートジボアール人に通訳をお願いしても、結果はかわらない。辺鄙な場所にあるのだろう。何台か断られた末になんとかタクシーを捕まえる。
賑やかな通りを2つほど素通りし、橋を2つわたり、住宅街を通りぬけ、さらに何もない道をグネグネ40分走った先にそのマンションはあった。

外観は綺麗である。部屋もモダンだ。しかしベッドが一つしかないのは聞いていた通りである。セミダブルのベッドで男二人が肩寄せ合って寝るのは不可能だろう。僕はソファーで寝ることを決意した。アビジャンの朝は冷え込むが、毛布があればなんとかなるだろう。夕食後に受付に電話をした。部屋にもう一枚毛布がほしいと伝える。

そして冒頭でかいた、バカバカしい悲劇が起きた。

部屋に戻った僕は同僚にことの顛末を報告した。40分もかけて結局シーツ1枚しか手に入れられなかったことを。同僚は微笑み、そして「僕がソファーで寝るので、ベッドつかってください」と穏やかに言った。先週のインドネシアでのこと、このあと更に僕はアメリカで仕事があることを心配してくれたのだ。想定していなかった申し出だったが、結局僕はその言葉に甘えることにした。あと1週間アメリカでの仕事を終えるまでは倒れるわけにはいかない。いやもちろんその後だって倒れたくはない。

僕はベッドで寝て、同僚はソファーで一夜を明かした。こうして長い1日がおわった。

11月29日 脱出の時
アビジャン最終日、この日の夜我々はコートジボアールを発ち、同僚は日本へ帰国し、僕はアメリカへ向かう。
既に仕事をする体力を全く削がれていた我々は、チェックアウト時間ぎりぎりまで部屋で休むことにした。僕はトーゴ人含めたアフリカの仲間に長い長いメールを書いた。要約すると「もうアフリカなんて来ねえよ!ウワァァン - ヽ(`Д´)ノ」とい書いた。僕らの時間と体力とお金は有限の資源だ。だったら資源を有効に活用される場所と相手を選ぶ責任が僕にはある。

ドラマチックな一夜を提供してくれたマンションをチェックアウトし、タクシーに乗り込んだ。埃っぽい道をタクシーに揺られて都心に向かいながら、この1週間のコートジボアールでの出来事を反芻しながら思った、インドネシアで壊したお腹はいったいいつから復活したのだろうかと。

12月1日 後日談と展望
今、僕はこの文章をワシントンD.C.で書いている。ここでの滞在はまだ後数日残っている。油断はできない。

とはいうもののバンドンとコートジボアールの後のアメリカは信じられないほど快適だ。日本食レストランはあるし、スターバックスのコーヒーも飲める、地下鉄があり、タクシーにはメーターがついている。インターネットは早く、会議は時間通りに始まり、論理の優劣で物事が決まる。それはどこまでも洗練された世界だ。
たまたまホテルでゼロ・ダーク・サーティーというCIAがビン・ラディンを殺害する映画を見たが、その中では暴力ですら厳格な秩序の中に位置していた。

この2週間僕はインドネシアとコートジボアールを駆け抜けた。それ以前に少なからず色々な国を経験してきた。国を形容するときに途上国、先進国というくくりをあまり意識したことはないが、「噛みごたえ」というものは絶対にある。世界には硬くてゴツゴツしていて大きくて噛みにくい国と柔らかくてツルッとしていて舌触りのいい国とその中間の国がある。
アビジャンは噛みごたえ抜群だった。インドネシアもバンドンは結構噛みごたえがあったし、噛み締めたら未知の汁がでてくる予感があった。対してアメリカは全てがあまりに洗練されていて噛みごたえがない。

しばらくしたら、熱さが喉元を過ぎたら、僕はまたあの強烈な噛みごたえを欲するのかもしれない。そんな時に今回の苦しさを思い出させる克明な記録が必要だ。それが長々とこのブログを書いた理由である。つまりこの文章は未来の自分へ向けた警告である。

Sep 16, 2013

2013年8月の光景

再開。
仕事が忙しいからといって書くことがない、なんていう人生は間違っていると思ったからである。
秘密を守ることが仕事だからといって、黙っているのは思考停止と思われて致し方ないし、なにより品が良くないと思ったからである。

8月2日
電車の中吊りが目に留まった。「昼から飲もうと夏が言う。」サントリーオールフリーのコピーである。
ITを使って途上国支援をしようという皆様の飲み会に参加させていただく。楽しかった。

8月3日
朝起きて実家に電話。「たまには元気な顔をみせろよ」とのこと。思いたちその日の午後、帰省。夏の田舎は涼しい。新鮮で元気な果物や野菜をたくさん食べると、寿命が伸びる気がする。甥っ子が

8月7日
神保町で美味しいビールを飲みに。表に出ていないけど良い仕事をしている人がきっとたくさんいるのだろうと、この日の友人の話を聞いて改めて思う。

8月9日
大井町でお仕事。会場が綺麗!

8月10日
Evernoteのパクリのようなコーヒー豆をドトールでみかける。午後親戚でご飯。イタリアンが美味しかったが、トリッパ頼みすぎだった。



8月11日
モンゴルへ。直行便に空席はなく、北京経由の中華国際航空(エアチャイナ)に乗ったが、行きも帰りも3時間づつ遅延である。選り好みをできる身分ではないが、相手との約束がある仕事で使いたくはない。



8月14日
聞けば今は年中寒いモンゴルを訪れるのに一番いい季節だという。そのせいかモンゴルはとてもエネルギッシュな国という印象をうけた。人々は誇り高く、そして論理的だ。熱烈な歓迎に感謝しつつ、同僚と無事日程をおえた。



8月17日
新しいバーを開拓。いまいち。

8月19日
献本いただいた「サイバーセキュリティ読本」とこれまたおみやげに頂いたウガンダの手作りしおり。


NHKスペシャル 「忘れらた引揚者 ~終戦直後・北朝鮮の日本人~」を見る。終戦後の引き揚げは混乱を極めたと聞いているが、これもまた切実な物語であった。戦争経験の語り手がすくなくなる中、記憶が薄れる中、戦争の有り様をあえて放送し続けるNHKは本当に素晴らしい。

8月21日
取引先が何名か東京に出張。朝から晩まで会議の日々。合間にアートアクアリウムをみんなで見学。



8月24日
妻と弟を誘って焼き肉へ。うまかった。霜降りの肉はもたれるので赤身が美味しく感じる。

8月25日
モンゴルでお亡くなりになったMacbookのディスクを交換。半年前にはシステムボードを入れ替えているが、ディスクが飛ぶとそれはそれは大変である。しかもTimeCapsuleでのバックアップがなぜかとれていないという不運が・・・
復旧に励む。



8月26日
長い夏休みをとった知人が仕事に復帰し、久しぶりに飲みにいく。最近合う人ほとんどLINEを使ってるなぁ。

8月27日
Software Design 9月号で「screenはもう古い、いまどきはtmux」という趣旨の記事を読んで、早速brew installしようと思ったらMacのディスクが・・・ 2時間かけてなおす。tmuxはデフォルトでだいぶ使えるようになっているのが便利だが、使い込んだ.screenrcを捨てるほどのものではない。あくまでも現時点では。こうやって時代に取り残されていく。

8月30日
浅草で定期的に飲むという仲間内の集いが、今回はなじみの店が改装中につき押上で開催される。結局フラフラになって帰宅することになるのはいつもとかわらない。



8月31日
濃い目の茶色の革スニーカーは重宝するが、今のやつがヘタってきた。というわけで買い直す。
前に履いていて足型があうと感じたRockportに戻ることに。

Aug 11, 2013

宛先:久我 件名:ガンジー

久我、元気でやってるか?

唐突だがガンジーについて語りたい。

・・・いや、お前が今忙しいとか忙しくないとかは聞いていない。まぁ座ってくれ。

ガンジー=聖人という空気

ガンジーはインドが生んだ思想家であり、活動家だ。祖国インドを自らの手に取り戻そうと、ガンジーは非暴力、不服従の原則をかかげて、宗主国イギリスと戦った。この非暴力の印象が強いせいか、ガンジーはちまたで聖人君子のごとくとらえられている。

その端的な例が、ネットでよくみかける、「ガンジーも助走をつけて殴るレベルの」という形容詞だ。あの穏和で温厚なガンジーですら助走をつけて殴ってしまいたくなるレベルの理不尽さをもつものに使用される。 (私的なところで言えば今年のドラゴンズの高木守道監督の采配は俺の中でガンジーも助走をつけて殴るレベルだ。前任者がレジェンド落合だっただけにな。落差が激しすぎてな。)

実はかなりややこしいガンジーの言動

だがここで俺は大事なことを指摘したい。それはガンジーは決して聖人君子ではなかったという事実だ。例を2つあげる。

1.他人の望遠鏡を理不尽にも海へ投げ込むガンジー

そもそもガンジーは西洋文明全般について批判的だった。そしてあるとき「船旅で出会ったドイツ人の持っている望遠鏡に対してそのようなものがあるから欲望が止まらないので捨てるべきであるとして言い争いになったが、最終的には望遠鏡がなかったらそもそもこのような言い争いになることはなかったと説き伏せ海に望遠鏡を放り投げた。」 ソースはWikipediaなので真偽は怪しいが、事実だとすればめちゃくちゃな理屈だ。

2.嫁とイチャイチャしてたら父親の最期を看取れなかったガンジー

これはガンジーの自伝に本人が書いているので間違いない。死期の近い父親の看病で病院に詰めていたガンジーはある日、横で寝ていた妻に欲情し、妻を起こしあれこれして、病室に戻ってきたら父親が亡くなっていたという。

久我、おどろかないか。望遠鏡で海をみてたらよく分からない爺さんが近づいてきて、それを捨てろっていうんだぞ。当時の望遠鏡は高価だったと思う。そもそもその望遠鏡は爺さんになにひとつ迷惑かけていないし。それを説明しても最終的に投げ捨てられる。これこそ、ガンジーも助走をつけて殴るレベルの言いがかりだ。 ガンジーの父親もかわいそうだぞ。「く、くるしい、み、みずをくれ、、、」って言っても周りに息子がいないし、返事の代わりに隣の部屋からギシギシ聞こえるなか御臨終だからな。

つまり聖人ってなんなんだろうな?

これ以外にもガンジーはこの手の強烈な逸話を多く残している。だからガンジーを平和の象徴とか、温厚さの象徴ととらえるのは間違っていると思うんだな。

しかしだガンジーのそういうダメな部分を知ってなお、おれはガンジーは偉大だと思ったんだ。むしろガンジーが真に偉大なのは、そんな自分の恥部をあられもなくさらけ出す勇気とあくなき一貫性を追求しようという姿勢なのだと。

弱さをさらけ出した人間ほど強いものはないのだとすれば、ことさらに自分を強くみせる努力を求めるこの社会との付き合い方もかわってくると思わないか。


久我、だいぶ前置きが長くなってしまったが、、、そのつまりだ、、、まぁなんだ、、、

俺は禁煙に失敗した。実は結構前に失敗してて、今日まで言いそびれていた。あれだけみんなの前で大見得を切ってしまったというのもちょっとだけある。
前に教えてもらった禁煙外来について今度詳しく話をきかせてくれな、、、いや、教えていただけませんでしょうか。

小宮山@もうすぐニューデリー


Jul 1, 2013

宛先:久我 件名:魔法瓶と電子レンジさん


久我、元気でやってるか。

この前、久しぶりに近所のコンビニの前を通った。おじいちゃんの気分が味わいたいので、いつもの3分の1のスピードでしか歩けないという縛りを自分に課して、ものすごくゆっくりとコンビニの前を通った。そしたらな、東京ウォーカーの特集が目に飛び込んできた。表紙にはこうあった。

「取材拒否の雑誌に載らない店特集」

これはいかんだろ。誰かが「雑誌に載らない店特集」が雑誌にのることを疑問に思わないといけないだろう。横に並んでいる宇宙兄弟の漫画より、東京ウォーカーのほうがよほどサイエンス・フィクションだ。これを作った奴は宇宙人にちがいない。

久我、これが21世紀ってやつだ。世界は狂ってる。クルクルに狂ってる。そしてその狂気は何気ない形で俺たちの日常を蝕んでいるんだ。

例えば俺は昔から「魔法瓶」というやつがたいそう気に食わない。例えばだ、例えばの話、魔法瓶が以下の様なものであれば、、、

まほうびん【魔法瓶】

奈良時代から平安時代にかけて現在の中国を経てヨーロッパから日本にもたらされた瓶の一種。その起源はイエス・キリストが厩で誕生した際に、従者たちが沸かしたお湯を入れた瓶に遡る。イスタンブール国際博物館に収蔵されている現存する最古の魔法瓶の中の液体は1800年を経た現在も摂氏80度を保っている。(2010年、ハーバード大学研究チームの赤外線温度測定に拠る) 温度維持のメカニズムは未だ解明されていない点が多い。なお日本の市場で魔法瓶として流通しているのは形や色で元祖を踏襲するものが多いが、概ね1年ほどで内部の水が室温と同じ温度に戻る。

これなら魔法の瓶と俺も呼びたい。使っていない時は床の間に並べておきたいとさえ思う。だが実際はどうだ?確かに魔法瓶にいれたお湯は冷めにくい。半日くらいは熱々を保ってくれる。しかしだ、魔法とはそんなチンケなものなのか?誤差程度の保温機能だけで「魔法の瓶」とはさすがにないだろう。まぁマーケティングっていわれればそれまでだけどな。

久我、俺はここであえて電子レンジさんの凄さを強調しなければならないと思う。電子レンジさんのほうがよっぽどマジカルなエクイップメントだということを。あれはあれだよ、横から電波みたいなのがビーって出て食べ物の中の水分子を震わせて瞬時に熱を発するらしいな、よくわからないけど。これはかなり魔法じゃないか? それだけじゃない。俺はときどき電子レンジのガラス窓から冷凍ご飯が温まり、ホカホカにされていく様をただじっと見ている。毎回想うんだ「ガラス隔てて向こう側が自分だったら死んだな」と。「今日も命拾いした」と。電波がどういう角度で出ているのかは分からないが、あんな頼りない仕切りだけでこちら側になんの影響も及ぼさない電子レンジさんは、市民の巻き添えを許さない心優しい暗殺者のようだ。

こんな画期的な家電の名前が電子レンジって名前なのはかわいそうじゃないか? しかも愛称「チン」だぞ? 英語だとなんだ、マイクロウェーブか? 微かな波あるいはびみょーな波だよ。そういえばそんな宗教があったな。そりゃパナウェーブか。

まぁいい。

とにかく今身近にあるものの中で一番マジカルなのは断トツに電子レンジさんであり、それを差し置いて冷めにくい瓶ごときが魔法を名乗るのが俺は全くゆるせない。

久我、ここまで読んでもしかしたらお前はこういうのかもしれない。「大豆を腐らせた食べ物が納豆で、豆乳を容器に納めて固めたのが豆腐なのはおかしい、逆ではないか」と。・・・そ、そういうのは屁理屈という。。。それはもう社会のルールだ。 もっと大人になれ。

じゃあ俺は寝る。

小宮山@白いご飯は1分20秒

Jun 9, 2013

To: Kuga, Subject: もし生まれ変わるなら

なぁ久我、生まれ変わるとしたら俺フグだけは嫌だ。

いや、フグ自体はいいんだ。なんか毒持ってるのも影のある男みたいでかっこいいじゃん?
刺もあるし。使い方よく分からないけど。
だから野生のフグはいいんだけど、とらふぐ亭の生け簀に入れられるフグには絶対になりたくないと思うんだ。

あそこのフグはたいてい養殖だろうから、大きいプールで育つわけだ。どこか片田舎の。
で、もうその段階でなんとなく自分の運命っていうかさ、なんとなーく朧気ながらだけれどもプロ野球選手にもロックスターにもなれないことを悟ると思うんだよね。

同じプールで仲良くなった友達もある朝とつぜんザバーって消えていくわけじゃん。「あれ、あいつどうしたんだろう」なんてメランコリックな気持ちになっちゃうこともあると思うんだよな。

でさ、そうやって鬱々と過ごしていると、今度は自分が絡め取られて運ばれるわけだ。多分池袋あたりのとらふぐ亭に。

ここでさすがに気づくよな。いくらフグでも。「俺、食べられちゃう、人間に食べられちゃう!」ってことに。
気づいた瞬間は目の前が真っ暗になって、歯がガクガク震えるだろうな。今までの人生が走フグ灯のように思い浮かぶかもしれない。叫びたいだろう、泣き喚きたいだろう。

だがしかしだ、久我。これはフグの悲運の一面でしか無い。フグの本当の悲しさは、あいつらが見てて面白いところなんだ。

昔、目黒には交差点の近くにとらふぐ亭があってな、俺はたまに信号待ちの時に水槽のフグを見てこんなことを考えていた。
「あー、こいつらなんも考えなくて毎日が日曜日でうらやましいなぁ」ってな。俺がそう思うほどに、あいつら揃いも揃ってだな、おっそろしく間抜けた表情してるぞ。口をパクパクしてな。パックパックってな。
見てて飽きないんだな。あの動きと顔が楽しくて。

あんな過酷な運命を生きている生き物に対して、「うらやましい」とか、俺はなんてアホだったんだと今ならおもうがな。ただ街角にあるあの生け簀を見て、かわいそうという気持ちがおきないのは、フグのあの姿形のコミカルさによるものだろうな。

およそ運命にはみはなされているが、笑いの神には愛された魚だと思う。
だが、久我、そんな生き様、悲しいとはおもわないか?

だから久我、生まれ変わるとしたらフグだけは嫌なんだ。

小宮山@人間

Apr 14, 2013

サイバー戦争と国際ルール作り。ここまでのあらすじ

いわゆるサイバー戦争について2013年4月時点での現況、特にノームの議論についての状況を整理してみた。私的な興味に基づいて調べた結果のとりまとめであることをご理解いただきたい。

サイバー空間とは

サイバー空間(Cyber-space)という言葉は「情報通信技術を用いて情報がやりとりされる、インターネットその他の仮想的な空間」ということで日本国内外において広く認識されている。 「インターネットその他の仮想的な空間」とあることからもわかるとおり、サイバー空間は無線通信ネットワークやインターネットに接続されていない閉域のネットワークまでを含むより大きな概念である。

サイバー戦争とは

サイバー戦争(Cyber-War)という言葉の定義は未だ検討がおこなわれている段階である。歴史を紐解けば、少なくとも1990年代前半には近い将来の脅威としてサイバー戦争を懸念する研究者がいた。当時は"Hyper War"、"Net War"そして"Cyber War"など呼ばれ定義も様々であった。

(インターネットの普及に伴いその上で起こる一般的な衝突をNet War、軍隊が行うものをCyber Warと呼び分ける程度の分類は行われていたようである。)

膨張する定義

この文章を書いている時点でサイバー戦争の定義は膨張を続けている。サイバー戦争という言葉が使われるのは主に2つのパターンのようである。

一つは行為者に着目するものであり、サイバー空間への攻撃の主体となる者が政府あるいは軍隊の場合にそれをサイバー戦争とするものである。もう一つは被害状況に注目し、その被害から政治的な目的が感じられるものをサイバー戦争とするものである。

特に後者の場合は過去十数年繰り返し行われてきた攻撃も戦争として捉えられる。

既存の戦時法と整合させる試み

戦時法や安全保障の専門家の間では、既存の法と整合させ、より厳密な定義を行おうとする動きがある。たとえばキングス・カレッジ・ロンドンのThomas Ridは”Cyber War Will Not Take Place”という論文でサイバー戦争の条件を"一に暴力性があること。第二に暴力的行為の先に目的があること。第三に政治的であること"と位置づけた。この3つをすべて満たすもののみをサイバー戦争とよぶということにすると、現在起きている事象はすべてその条件を満たさないためサイバー戦争は発生しておらず、また今後も起こる確率は低いという主張である。

サイバー戦争の実例

サイバー戦争についての定義がない状況ではあるものの、1)湾岸戦争時に米軍がイラク軍のネットワークに侵入しイラク軍の将校に投降をもとめるメールを送った 2)イスラエル軍のシリア空爆に際して事前にレーダーシステムを無力化する攻撃が行われた 3)人民解放軍が米国の国防省のネットワークから文書などを盗み出したなどという事例が、真偽が不明のまま「サイバー戦争」が起きている証拠として報道され、結果的にサイバー戦争の脅威が増しているという印象を与えている。

専門家は、現実に起きた(あるいは起きたとおもわれる)事象について評価するなかで、サイバー戦争を定義しようとしている。その際に多く引用される以下3つの事例について経緯を抑えておけば、今後の議論を理解しやすい。

標的型攻撃、APT攻撃

高度な手法を用いて、かつ執拗に同じ標的に対して侵入を試み、その情報を盗み出そうという試みがAPT攻撃などと呼ばれている。APT攻撃はさらに攻撃者のグループやその手法によって、細分化される。

特に話題に登るのは1990年代後半から行われていたとされるムーンライトメイズ(Moonlight Maze)、そして2003年頃に確認されたタイタンレイン(Titan Rain)である。どちらも米国の安全保障関連の組織、企業が狙われ、発覚したときには多くのデータが世界各地の攻撃者が所有すると思われるサーバに転送されていた。攻撃に使用されたIPアドレス、ツールなどから中国による攻撃とする説が多い。

最近では米国の民間企業がAPT1というグループが米国政府とその関連機関に対して行ったという攻撃の詳細を公表し話題になった。

エストニアへのDDoS攻撃

2007年4月から5月にかけてエストニアの政府や金融機関などのWebサイトに断続的にDDoS攻撃が行われた件である。各種手続きなどのオンライン化が進んでいるエストニア関係者に大きな動揺をもたらすのと同時に、その当時緊張関係にあったロシアの関与が噂された。当時のエストニア政府高官は攻撃を指示したのはロシアであると非難した。

その後NATOがサイバーセキュリティに関する専門機関CCDCOEをエストニアの首都タリンに設置するきっかけとなる。

Stuxnet

2010年に主にイランなど中東諸国で感染がみられる、USBドライブを媒介して感染を広げるタイプのウイルスとして報道される。後に稼働する条件などから推定してイランが保有する核燃料施設のウラン濃縮用遠心分離機を誤動作させるものと発覚した。

2012年6月にニューヨーク・タイムズがオバマ大統領とイスラエル政府がStuxnet作成に関与したと報じる

サイバー戦争への懸念

サイバー戦争の問題について今後の議論を進めるために、主要なプレーヤーがなにを問題として認識しているかを整理したい。

民間事業者の懸念

まずかつての戦場(陸海空)とちがい、サイバー戦争では民間が所有するインフラ(コンピューターやルータ)が戦場となる。これについてISPなどの通信事業者は自らが戦争行為に巻き込まれることを懸念する。

また、サイバー空間で軍隊と軍隊が直接衝突するのではなく、相互に他国の電力や鉄道やオンラインバンキングなどの重要なインフラを狙う可能性が高い。

さらにサイバー戦争への防御力を向上するために、民間事業者に対して、何らかの規制を加えようとする動きはすでに米国などでおきている。リチャード・クラークは自著で民間事業者にサイバー戦争対策を強制するよう働きかけたが、そこで様々な困難があったことを告白している。

サイバー戦争の脅威が事実であったとして、民間事業者に追加のセキュリティ対策を義務付けるのは、核戦争時代に電力会社に弾道弾迎撃ミサイルの設置を義務付けるのと同義であるという声がある。

軍隊の懸念

2012年9月防衛省はサイバー空間防衛の指針を示した。この中でサイバー攻撃の特性として以下をあげている。

  • (1)多様性 (主体、手法、目的、状況において)
  • (2)匿名性
  • (3)隠密性
  • (4)攻撃側の優位性
  • (5)抑止の困難性

原文はサイバー攻撃に対応することの難しさを、端的にまとめるものなので、ここで引用したが、世界各国の軍隊において概ね同様の認識がされているとおもわれる。

政府

(省略)

ノーム(国際規範)とCBM(信頼醸成装置)

サイバー戦争という見えない脅威への対応について、ノーム(国際規範)とCBM(信頼醸成装置)の確率に向けた努力が官民においてはじまっている。

ノームについて誤解を恐れず一言で単純化すれば「サイバー戦争のルール」である。現実の世界の戦争にも、核兵器の拡散を防止するルールがあり、捕虜の虐待を禁じるルールがある。サイバー空間でも同様のルールが必要ということである。

CBM(TCBMと呼ばれることも)として有名なのはキューバ危機のあとに、米ソ首脳の間に設置されたホットラインがある。敵対する勢力との間にも、事態が不要にエスカレートしないように直接対話できる窓口が必要であるという。

ノームとCBMの確立に向けた国際社会の主要な取り組みを、以下にプレーヤーごとにまとめる。

ロシアと中国

2011年9月にロシアと中国とタジキスタンとウズベキスタンが国連総会に”Internet code of conduct for information security”を作ることを提案した。ここでの中ロの提案の趣旨は以下のとおり。

  • インターネット上には国家の主権が認められ、従って国家の権利と責任が発生するということ
  • どの国家もインターネットを敵対的行為のために使用することは許されないこと(つまりインターネットの軍事利用を制限しようとしている)
  • インターネットを管理するより透明性の高い仕組みを作る必要があり、国連がそれを検討する上で主導的な立場を果たすこと

ロシアと中国と一括りにしてしまうのは乱暴であるが、少なくとも両国が国際社会に提案している内容からは、両国のゴールはサイバー戦争の脅威低減にとどまらず、米国とその関連機関が実効支配している(と彼らが考える)現在のインターネットのガバナンスを変えていくということにあるとおもわれる。

国連

国連の中では特にGGEとITUの取り組みについて書き留めておく。

UN GGE

国選総会は個別の問題について検討する政府専門家会合GGE(Group of Governmental Expert)を招集できる。メンバーは地域からの推薦により決定される。

情報セキュリティの分野では2004年にロシアの提案でGGEが構成されるが合意して声明を出すに至らなかった。 2009年に再度構成され2010年にサイバーセキュリティに関するノームの議論を続けるべきなど5項目の提案を含んだレポートを完成した。

2012年に再度構成され、2010年の提案をもとにより踏み込んだノームの具体案が提案されると期待されている。

ITU

国連の専門機関の一つであるITUはサイバー戦争について、ポジションを明確にとっていない。一方で中東政府機関などから情報を盗み出したとされるウイルスの分析を民間ベンダーと協力して行い、その結果を各国に提供するなど、サイバー攻撃対策に必要となる技術的な能力を高めている。

ロンドン会議

2011年9月にイギリス外相の呼びかけで開始。西側諸国の政府が中心に参加し、サイバー戦争への備えが必要であるのを認めつつも既存の国際法や関連制度を大きく変えたくないというスタンスをとる会議体である。

ロンドンでの初回の会合では、現時点でサイバー攻撃対策について強制力を持つ国際法を新設するのは時期尚早と結論付けた。2012年にブダペスト、2013年にソウルでの会議が予定されており、上記のメッセージを繰り返し発出していくと考えられている。

NATO CCDOE

タリン・マニュアルという文書が2013年3月に正式に公開された。国際法などの専門家の3年におよぶ検討をもとにつくられた。事務局としてこれをサポートしたのがNATO CCDOEである。

このマニュアル作成に関わった専門家によれば、目的は既存の国際法がサイバー空間にどのように適応されうるかを議論するためのたたき台づくりである。従ってサイバー戦争に関するノームのあり方を提案するのではなく、現状の国際法を説明することに主眼がおかれている。

タリン・マニュアルでは少なくとも5つの重要な問題提起が行われている。

  1. 戦争行為への直接的関与に関する構成要件
  2. サイバー攻撃の構成要件
  3. 中立性の原則はサイバースペースに適用されうるか
  4. 人道的支援を行う中立機関(例えば赤十字社)のサイバースペースでの立場
  5. 非政府組織によるサイバー攻撃の取り扱い

あくまで出発点とはいえ、海戦のあり方についてサンレモ・マニュアルが、空戦のあり方について"Manual on International Law Applicable to Air and Missile Warfare"が大きな役割を果たしたことを考えると、(サイバー戦争に関するノームの検討について)タリン・マニュアルがの今後の議論の土台となると見る専門家が多く、実際各所で引用されるようになっている。

その地域レベルでの動き

NATO CCDEOほど大掛かりでないものの、地域レベルでサイバーセキュリティに関する備えを進めようとする動きでは以下が代表例としてあげられる。

OSCE(欧州安全保障協力機構(OSCE)

イギリスの呼びかけでノームとCBMに関する議論が行われている。

SCO(上海協力機構)

SCOの中に情報セキュリティの部会がある。前述のInternet Code of ConductはSCOの成果物として国連総会に提出された。

民間

マイクロソフトなどの民間事業者は、(欧州安全保障協力機構やUNGGEで行われているノームの議論は重要であると認めつつも)議論は政府主導であり、今日のインターネットインフラの多くを所有する民間事業者の声が届きにくいと指摘する。現在のベストプラクティスやノームを十分に理解する民間事業者がサイバーの世界のノーム確立に主導的役割を果たしていくべきであるということである。

また多くのITベンダーが国境を超えてグローバルなビジネスを展開していることを考えると、グローバルベンダーがCBMの一つとなると考えるのも不自然でなく、その役割は大きい。

既存のセキュリティインシデント対応を行う組織であるCSIRTは国際的な横のつながりが強く、これがCBMの土台となりうるのではないかという議論もある。

終わりに

サイバー戦争がおこる/おこらないというのは少なくとも5年以上の前の議論であり、上記のグループにおいてはサイバー戦争に対するスタンスの違いはあるものの、それが近い将来起こるという認識が共通されている点は特筆に値する。物騒な時代である。そして多分、情報セキュリティと法律と安全保障の専門家が力を合わせないといけない時代でもある。

Mar 15, 2013

イイね!のインフレーション


イイね!インフレーションが起きている

私がFacebookを使い始めたのは2006年のことである。その頃からのFacebookユーザには是非自分のタイムラインをさかのぼっていただきたい。気づくはずだ、その当時Facebookでイイね!はほとんど使われていなかったということに。イイね!ボタンはあった。しかし我々は律儀にコメントしていたはずだ。たとえそれが「いいですね!」の一言であっても。

翻って2013年、街にはイイね!があふれている。「あー、仕事大変!」というぼやきに10イイね!、ありふれたラテアートの写真に50イイね!結婚でもしようものなら100イイね!は堅い。
昔なら5つイイね!を押してもらえたら、ちょっと優越感に浸れたのに、いまや「え?10イイね!だけ?」と感じる始末である。明らかにイイね!の価値は下がっている。

イイね!インフレの要因

イイね!インフレは直接的にイイね!の供給過多によって引き起こされた。ではなぜイイね!が供給過多となったか?理由を考えてみたい。

イイね!労働人口の飛躍的増加
2006年、それはMixi黄金期であった。Facebookは英語でかかれたよくわからないサイトというのが巷の評価だった。当然ユーザは少ない。ユーザが少ないと言うことは知り合いもFacebook上に少なかった。
それが今や一億総Facebook時代である。市長の号令で、市のホームページまでもがFacebookにつくられる時代である。私のネットワークにはずっと音信不通だった中学の同級生、マレーシアの山で一度あっただけのノルウェー人バックパッカーまでいる。
2006年とくらべて私のFacebookへの投稿を目にする人の数は確実に増えている。多くの人と繋がっている、ゆえにイイね!が積み重なる。

イイね!の質的変化
イイね!を押す我々の心境も変化してきた。
  • うーんコメント考える時間がないな、とりあえず押しておこう。→ コメント面倒イイね!
  • 田中部長またヨサゲなレストランにいった時の写真をアップしてる。たまには部下におごれよ?まぁいいや、ポチ→接待イイね!
  • なになに、アフリカには飢えている子供が今も、ふーん・・・一応社会問題に興味ある姿勢示しとくか、ポチ→公共イイね!
大してイイね!と思っていなくてもイイね!を押してしまう。人間とは面倒くさい生き物である。

イイだろう!の増加
私生活のあれこれにイイね!の数という見た目に明らかなインデックスを与えられた我々は、どうせならイイね!してもらいたいと考えがちである。
その結果、受け手の目線を意識した、イイね!が増えそうな内容を書き込みがちになる。
書きっぱなしのTwitterが馬鹿発見機となり、Facebookがリア充アピールの巣窟となった原因は、受け手の目線をどれだけ意識しているかの差が生み出した。

イイね!強迫症などの増加
最近私は、近所のバーテンダーさんと友達になった。彼はチンプンカンプンのはずの情報セキュリティの話であってもかならずイイね!してくれる。
これは接待イイね!ではないか?心優しく、仕事の忙しい彼に余計な気を遣わせているのではないか?そう心配した私は、直接彼に伝えた。「毎回イイね!を押す必要は無いんですよ。」と。いつも通りの穏やかな笑顔で彼はニッコリと応じた、「僕、そういう性分なんです。」と。
イイもワルいも関係ない、とにかくイイねを押さねばならない。そういう思いに駆られる人はもはやイイね!強迫症と呼ばれてしかるべきだ。マジメで几帳面な人にその傾向が顕著だ。
マジメなだけにイイね!を地道に量産する。インフレは加速する。

ノールックイイね!
日頃の生活を振り返り、殊勝な心がけを割と長文で書いたとき、イイね!がすぐに3つもついたらうれしいものである。誰がイイね!をしてくれたのか確認する。
私はそこで、3人がフィジー人とスーダン人とケニア人であることを知る。な、なぜだ?もちろん誰一人日本語を読めない。
賭けてもいい、彼らはノールックでイイね!をたたき込んだのだと。世界は広いのである。

Facebook社によるイイね!緩和
本来イイね!の適切な価値を維持する役割を担う、Facebook社は意図的にイイね!安を引き起こしている。
たとえば先日のFacebookアプリのバージョンアップでイイね!ボタンが目立つ位置に大きく表示されるようになった。もっと気軽にイイね!してくださいというFacebook社の姿勢の好例である。その様はどこぞの中央銀行が金融緩和にひた走る様を彷彿とさせる。
「イイね!の番人」たるべき場を統べるものが、適切な価値を維持する役割を放棄し、ここにインフレは暴走機関車の勢いで加速する。

そして始まる「どうでもイイね!」時代

このおそろしいイイね!インフレの行き着く先にはどうでもイイねシンドロームが待っている。イイね!100個なんてなんて日常茶飯事、どうでもイイね!と感じられる時代である。ユーザーは常に新しい刺激を求めるのだ。
一度イイね!を緩和したFacebook社にインフレを止めるすべはない。シリコンバレーの優秀な頭脳を結集し、彼らはユーザを飽きさせないためにイイね!の増量を決意する。
そして、とてもイイね(イイね!2つ分)ボタンを導入し、さらにはゴールドイイね!(イイね!5つ分)を始める。
あとは10年に一度のイイね!(イイね!10個分)、10年に一度のイイね!をさらにうわまわるイイね!(イイね!15個分)、人生最初で最後のイイね!(イイね!100個分)と転落していく。最終的にマンモスイイね!を導入した直後に、サンミュージックの優秀な顧問弁護士により訴えられ、これを機に王国は崩壊するであろうというのが私の見立てである。

げに恐ろしき「どうでもイイね!」時代を生き残るにはどうしたらよいか?

簡単である。Mixiにもどるのだ。あのどうにもパッとしない、もっさりとした、しかし暖かいオレンジの世界に我々は帰るのだ。


最後になるが、このポストに関しては皆さん全力でイイね!を押していただきたい。お付き合いでもノールックでかまわない。そう私は細かいことは気にしない。しかしイイね!の数は気になる人間なのである。


お詫び:
2013年3月14日に公開した、イイね!のインフレを指摘するレポートにおいて、一部インフレをデフレと誤記しておりました。お詫びして訂正いたします。
なお、かような初歩的かつ重大な間違いを含む文章について既に11のイイね!をいただいており、図らずも筆者が指摘する、ノールックイイね!が(筆者の想像以上に)はびこっていることが証明されました。
イイね!中央銀行 チーフエコノミスト 

Feb 9, 2013

インフラを想う3冊 (本をまとめてオススメしてみるシリーズ)


おもしろい本だけど、一冊だけ読んでも輪郭が浮き上がってこない、パンチが弱い本がある。人にはオススメしにくいのだ。そういう本の中で別のなにかと組み合わせたら面白いと思えるものを紹介してみようと思う。僕にとって「鴨とネギ」でも、みなさんには「梅干しと鰻」なのかもしれないのだけれど。

インフラを想う3冊



一冊目の定刻発車はJRの鉄道システムが如何に発達し、現在の安定した輸送を行っているかを調べたノンフィクションである。著者が現在の鉄道の運用に欠かせない中央司令室を見学した際の描写は臨場感があり、なかなか心踊るものがあった。

本書のタイトルが問うている「なぜ正確なのか?」については、路線・車両・スタッフという有限資源をつかって、より多くの乗客と貨物を運ぼうとするには、ダイヤを作成しその通りに運用するというのが最善だからという趣旨の説明がなされていた。
多く運びたい、だから正確にしないといけないのである。インフラが貨物乗客の増加にあわせて進化し続ける生き物のように描かれ、守る仕事の難しさが伺える。

二冊目の空白の天気図は太平洋戦争の終戦期に広島の気象台の人々がいかに観測データに穴をあけないように努力したかを綴ったノンフィクションである。終戦時と広島というキーワードから予想できるように、原爆が投下された直後の広島が舞台だ。壊滅的な被害を受け、生き抜くことすら難しい状況のなか、それでも気象台は気象観測を続けた。急性放射線障害の後遺症で仲間がひとり、またひとりと倒れる中でも、時に家庭を犠牲にして観測の数字を積み重ねていく。。

天気予報を社会生活のインフラとするかは微妙なところであるが、予報の元となる気象データを日々記録し、後世に残していくことは我々の生活の基礎となっていると思う。時々、メディアで「観測史上最大の・・・」という前置きのニュースを目にすると、この非常事態にあっても後世のためにデータだけを残した人々のことを思わずにいられない。(というほどではないが、時々思い出す。)

ただし本書を読む限り、職員が絶えず観測を続けられた理由の一つに崇高な使命感があったのはもちろんのこととして、片方では習い性、よく言えば日頃の訓練によって維持されているものの多さを感じた。「すげー爆弾おちたけど、まぁ今日もいつも通り仕事しようや。」という。


三冊目のローマ人の物語〈27〉はローマ帝国の水道や道路などのインフラを紹介している。著者はローマ帝国が敵対者を侵略し、新たに支配下においた際には、まずその都市からローマに通じる道を作ったという事実を紹介している。「すべての道はローマに通ず」という副題の通りである。

道路というインフラを設備することは非支配国とローマ帝国の人と経済を密接に結びつけることに成功し、帝国が長きにわたり繁栄を維持するのに貢献した。僕のような悲観主義者の視点から考えなければならないのは、ローマに通ずる道は反乱分子がローマに攻め入る道にもなりえたということである。
道はローマ帝国を侵略の危険に晒す行為でもあったが、ローマ人がそのリスクをとってもインフラを整備するという判断をしたのは、ありきたりな言い方だが勇敢だ。

一冊目からは二冊目と違い、この本でのインフラは周囲を飲み込んでいく開放性をもっている。そしてそのような開かれたインフラを持つ国が覇権を握ったということは、この本のローマ帝国が、そしてその後の歴史の中でも特に今日もっとも成功している通信インフラ・インターネットを支配するアメリカが、身を持って証明していると思うのだ。インフラを全面的に開放して覇権に近づく。そういう発想の転換を僕らが迫られる時期はそう遠くないはずである。

毎日のようにお世話になっている、電気会社・上下水道会社・ガス会社・運輸会社・佐川急便、そして何よりも私にインフラの大切さをちょいちょい再確認させてくれるソフトバンクモバイルさんに感謝しつつ、このとりとめのない読書感想文をおわりたい。

Feb 8, 2013

陰口を慎んだほうがよい理由


これといった思想も、特定の宗教を信じることもなく生きている自分ではあるが、一つだけ気をつけている事がある。それは人の陰口を言わないことである。
なんと当たり前のこと、と驚かれる向きもあるかもしれない。しかし世の中には陰口と悪口が大好きな人がいる。そして「人の陰口はよくない」と道德を全面に掲げて否定する人もいる。そのどちらもちょっと違うとおもうのだ。

まず陰口を言っても問題を解決しない。ちなみに、あなたが、誰かの行動に腹が立ったとして、それをその「誰か」がいない場所で第三者に伝えるのがここでいうところの陰口である。
陰口は「誰か」の耳に届かない。腹がたったことを直接「誰か」に伝えれば改善される可能性が1%はある。しかし陰口は「誰か」の耳に届かない。永遠に改善されない。

まれに「誰か」の耳に届くこともある。陰口が第三者を経て、たいてい尾ひれがついて、「誰か」に伝わる。これはもとの陰口の内容に加えて、人伝に聞かされるというダメージが重なり、「誰か」の気分を害するだけである。改善の見込みはゼロであるばかりか、「誰か」の信頼をなくす。

次に陰口はコストがかかる。お金がかかるという意味ではない。頭をつかうということだ。陰口を言うという行為は、時と場合と同席する人によって自分の意見を変えるのであるから、高度に知的な営みである。子どもは砂場で遊んでいる他の子に「くさーーい!」と叫ぶが、大人は居酒屋あたりで「課長、くさくない?ヒヒヒ」とささやく。大人が汚れてしまったわけではない。大人は知的なのである。だがしかし、大人には国際情勢から親戚の葬式から高血圧対策まで考えなければいけないことがある。せめて陰口をやめることによってもっと楽に生きればよいのだ。

なお、我々は聖人君子でないので腹が立つ事はある。その時は我慢すればいいのである。我慢の限界を超えたら、その時は面と向かって言ってやればよいのである。思えば小さいからこのポリシーをもっていた私は中学時代になんにでもずけずけ発言したことから「介入関与」という仰々しいアダ名を頂戴した。なんとなく「内閣参与」と響きが似てるので将来的に私もその程度までは出世するのだと思う。その後の人生においても、「毒舌な○○さん」「きっつい性格」どころか「ちゃぶ台返し○○」と言われる始末である。子鹿のはかなさとエグザイルのボーカルの頭に線がない方のスタイルを兼ね備えている私が、こんなヒドイ言われかたをされるのはひとえに「言ってまう」ポリシーのせいと思われる。そう、それ以外考えられない。うん。

話がそれた。

陰口は慎むべきである。それは道德の問題でなく、経済の問題である。陰口を捨てることで、あなたは世界が良くなるチャンスを得る。シンプルな世界を得る。もしかしたら「介入関与」というアダ名を得る。また愉しからずやである。