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Dec 14, 2013

コートジボアール戦記 (16000字)

西アフリカはコートジボアールの首都アビジャン。その中心部から車40分ほど走った郊外のマンション。時刻は11月28日夜9時をまわった。

暗くて狭いマンションの受付の部屋、傍らに置かれた椅子に僕は途方にくれて座り込んでいた。受付には2人の現地の若い女性従業員が、こちらの絶望を気にもとめずフランス語で楽しそうにおしゃべりをしている。天井には、日本ではもはや見かけない小ぶりのブラウン管テレビがマンチェスターユナイテッドとレバークーゼンの試合を垂れ流している。前半の途中、ユナイテッドは得点を重ねているようだ。香川の調子がよいことは、何度となくリプレイに登場することから分かる。

僕はこの夜を乗り切るため、毛布をもらいにきた。電話で頼んだが、毛布(blanket)という英語は通じなかった。だから身振り手振りで毛布を説明しにやってきたのだ。僕の拙くも熱のこもったジェスチャーで従業員には意味がつたわったようだ。「アァー!!!」といいながら小走りに別の部屋へ走っていったのである。

5分ほどで彼女が戻ってきた。誇らしげに、手に枕をもって、、、

違う。惜しいけど、それじゃない。ブランケットなんだ。かけて寝るものなんだ。身振り手振りの限界を感じた僕は、メモ用紙を借りてそこにベッドを描き、まくらを描き、そして毛布を描いた。これ!ブランケット!カケテネルー!

「アァー!!!」 僕の絵は言語の壁を超えた。彼女は今度こそわかってくれた。そしてまた小走りで受付の部屋を出て行く。

しかし待てど暮らせど彼女が戻ってこない。サッカーは前半が終了し、ハーフタイムに入り、もう後半が始まっている。僕はいつのまにか座り心地の悪い切り株のような形状の椅子でウトウトしていた。忘れ去られたのか?と疑い始めたその時、突如「バタン」という音がして、彼女が戻ってきた。疑った自分を恥じつつ、椅子を立つ。

満面の笑みをたたえた彼女は僕に歩み寄り、、、そして、シーツを手渡してくれた。

もはやシーツとブランケットの違いを説明する体力はなかった。2週間張り詰めた何かがきれた。「ウィー、ウィー、メルシー、メルシー、サンキューべリマッチ! ディスイズ ブランケット! ティスイズカケテネルー!」とお礼をいい、僕は毛布のかわりにシーツを持ってトボトボと同僚が待つ部屋に戻った。

なぜこの夜、毛布が必要だったのか? なぜアフリカのホテルではなくマンションに、しかも同僚ととまっているのか? そして何よりなぜ僕は切れてしまうほどに追い詰められたのか?

話はこの2週間前にさかのぼる。だいぶ長くなるが、まぁ暇な時に読んでほしい。

11月17日 22時 ジャカルタ→バンドン
僕は4人の見知らぬインドネシア人に同乗し、ジャカルタ国際空港から会議が行われるバンドンへと向かう乗り合いミニバンの車内にいた。外は熱帯気候だが車内は親の敵とばかりにエアコンがきいている。インドネシア人は基本的に陽気な人が多いが、車内では全員が貝のように黙っている。一番狭い後部座席につめこまれた僕は膝をかかえつつ、寝るにねれず車窓をながめていた。6年前に同じ道を走ったはずだが、道が新しく整備されていることに驚かされる。

走り始めて2時間ほどで、ミニバンはサービスエリアにたちよる。暗闇に照らされて浮かぶモスクがあり、スピーカーからはアザーンが流れ、まとわりつく熱帯の空気とともに、ここはインドネシアであると五感にうったえてくる。かくて長い長い旅が幕をあけた。



11月18日 バンドン
僕の仕事はサイバーセキュリティに関するものであり、国際会議に出席することは少なくない。たいていの事ではもう驚かない。ただ今回の会議はイスラム諸国会議機構の関連組織が主催であり、参加者は全てイスラム国家から集まっている。イラン、パキスタン、スーダン、ナイジェリアといった物騒なニュースに登場する機会の多い国々からも参加者が集まる。

会議では発言者は必ず「as-salāmu ‘alay-kum.」とはじめ、それをうけて出席者は「wa-‘alay-kumu s-salāmu.」と返す。人を呼ぶときはMr.ではなくBrotherを使う。そういう立ち居振る舞いの一つ一つが葬式仏教徒の僕にイスラム文化の重厚さをねじこんでくる。
よく知っているマレーシアやインドネシアの友人もいつもより意識してイスラム教徒としての振る舞いをしているように感じる。たとえば普段ヒジャブをしていないマレーシアの女性陣も今回ばかりは全員が着用し頭と髪を隠している。お陰で知り合いに「はじめまして」と挨拶をしてしまった。

信仰の面でも、言語も肌の色も僕は異物である。

11月19日 サイバーバンドン会議は夢か?幻か?
バンドンにはインドネシアで最初の大学であるバンドン工科大学があり、学研都市として名を馳せている。優秀なIT技術者が多く、それを頼りに多くのIT企業がここにオフィスを構える。例えばBlackBerryのアジアでの開発拠点もここバンドンにある。
一方で会議の主催者でもあるインドネシア人達には別の思いがあるようだった。言うまでもなく、この場所は1955年に反帝国主義、反植民地主義を掲げてアジアとアフリカから首脳が集ったバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の開催地である。バンドン会議はその後、アジアとアフリカで次々と独立国がうまれていく端緒となった。今、この地でサイバーセキュリティについてアジアとアフリカのイスラム国が手を結び、安定したインターネットの実現を推進していくきっかけを作る、そういう壮大な野望が彼らには確かにある。

会議の後に、出席者は全員バンドン会議で使われた建物を見学し、その歴史を目の当たりにした。



会議での自分のプレゼンがおわり、当然アルコールは提供されない歓迎パーティーを終え、部屋に戻る。軽くビールでも飲みたいと思ったが、部屋の冷蔵庫にもルームサービスのメニューにもアルコールはなかった。諦めて寝る。

11月20日 まだバンドン
この日も会議。終了後にパーティーが行われる。デザートをつつきながら、ステージで続けられる素人カラオケ大会を眺めていた。聞いたこともない歌の伴奏が流れた瞬間に仲の良いインドネシア人たちに突如として両脇を抱えられ、ステージに連行される。インドネシアでは国民の誰もが歌える、五輪真弓の「心の友」という曲を日本人の僕に歌わせたいということらしい。

困った。だって僕はそんな曲知らない。なんなら五輪真弓も名前しかしらないくらいだ。ハミングとテンションでやり過ごす。

11月21日 まだまだバンドン
凸凹ありつつもバンドンで無事に仕事をこなし、ジャカルタにもどるはずの朝のこと。ジャカルタから次の目的地タイへのフライトはお昼であり、朝8時にはバンドンを車で出発する必要があった。寝坊する心配から二重三重に目覚まし時計をセットしていたが、結果的にそれは必要なかった。朝5時に強烈な腹痛と下痢で目が覚めたからである。

異国で体調を崩したことは過去にも何度かあった。6年前のインドネシアでの下痢、5年前のブラジルでの貧血、2年前のミャンマーでの食あたりなどなど。どれも苦しかった
ただホテルに医者を呼ぶほどの状況は6年前のインドネシア、そして今回の2度だけだ。両者に共通するのはバンドンで食事をしたということくらいか。この地方の料理があわないのかもしれない。6年前にいくら我慢しても良くならなかったことを思い出し、医者を呼ぶ。下痢、そして熱があるらしい。もらった薬をのみ、水をのみ、トイレで1日をすごす。



11月22日 バンドンから華麗に出立
完治には程遠い状態で4時間の車移動(トイレがない)に耐えられるのか自信がない。しかし既に1日多くバンドンに滞在しており、もう1日先延ばしすると次の次の仕事にまで穴が空く。「次の目的地に向かう」「もう1日休んで様子をみる」「帰国する」の3択でギリギリまで悩むが、体が回復することを信じて、最初の選択肢を選ぶ。間違った選択だった。
バンドンから贅沢にタクシーを貸しきって移動する。体を冷やしたくないので、エアコンを切ってもらったので、車内は暑い。だが下痢の記憶が鮮烈すぎて、水を口にする気になれない。4時間のタクシーは便意と暑さとの闘いだった。

11月22日 23時 バンコクの空港
バンドンからジャカルタの4時間半の車移動とジャカルタからバンコクまでのフライトをなんとか切り抜け、バンコクに到着することができた。ここで同僚と合流する。日本から救援物資(正露丸とストッパ)を持参してきてくれた。ありがたい。
空港ラウンジには大きめの野菜が入ったコンソメスープがあり、久しぶりに固形物をたべる。優しい味がする。抗生物質をのみつつ、空港でしばし休息する。このあとエチオピアのアディス・アベバを経由してコートジボアールに向かう。

11月23日 14時 コートジボアール
長い空旅で体調を少し復活させ、コートジボアールにおりたつ。土の茶色さと日差しによる手荒い歓迎はいつものアフリカである。


バンドンからの42時間におよぶ長い長い移動の果てに、我々はやっと首都アビジャンの高級ホテルにたどり着く。チェックインしようとすると受付の様子がおかしい。予約が見つからないらしい。現地のパートナーがホテルの予約を自分がすると言っていたのだが、できていなかったのだ。
しかし42時間の移動の後に別のホテルに移動する気力と体力は今の僕にはない。治安がよくないのは知っているから、顔見知りの多い、会議が行われるホテルになんとしても泊まりたい。だいたい今だって下痢気味だ。そこで、お金は払うから開いている部屋に泊めるようたのんだが、なんと「満室」。そして近辺のホテルも全て満室。そんな馬鹿なことあるかと思うが、顔見知りのアフリカ人も現在のアビジャンの活況からして、満室は仕方ないとのこと。

現地の取引先の担当が世話を焼いてくれたおかげで、1時間ほどたってホテルが手配出来た。しかしそれは車で20分ほど走る郊外のホテル。見つかっただけラッキーだという。割り切れないが、しかたない。郊外へと向かうタクシーにのる。いつもはどんな状況でも微笑みを絶やさない旅慣れた同僚もさすがに閉口気味だ。

郊外のホテルにチェックインし、45時間ぶりにシャワーを浴びて生き返る。ホテルのロビーにあるレストランで夕食をとるが、賑わう雑踏と客層の悪さに緊張感は抜けなかった。
冷め切った豚肉をつつきながら「"Can you speak English?"はないよなぁ・・・」と同僚がぼやく。このホテルにチェックインしようとした時のことを思い出しているのだ。この国では最高級ホテルであっても英語が通じない。ホテルの受付でまったく鈍った英語で話しかけられ、聞き直すと「Can you speak English?」と馬鹿にしたような調子で尋ねられたのである。少なくとも客にそんな失礼な聞き方をする君よりは英語喋れるんだけどな、と言いたいところだが仕方ない。我々は滞在3時間にして、この街の厳しさを痛感していた。

11月24日 アフリカでの仕事
この日から我々が主催するトレーニングが始まる。そして顔見知りの仲間もそれぞれガーナ、ベニン、トーゴから集ってきた。この中のトーゴ人が我々のホテル予約を引き受けた張本人である。さっそく君のせいで大変な思いをしているのだから、なんとかして中心部のホテルに部屋を取るよう依頼する。彼はフランス語が話せる、コネもある。

そんな仕事とはかけ離れた交渉をしつつも、Show must go onならぬTraining must go onである。もはや下痢や微熱にかまう余裕はなかった。

この日の午後だいぶ様子がみえてくる。ホテル問題は当初想定していた以上に深刻だった。やはり会議が行われるホテルはおろか、都心のホテル全てに空き部屋がない。この時期いくつもの国際会議が開催されていて、なおかつ政府系のイベントも多く、あたってみたが本当に部屋がないそうである。

我々が滞在するのは残り5日。今夜は今のホテルに戻り、明日の夜からはこの街最高級のホテルに2泊だけ部屋が開いているので、そこに移るという案が提示された。
問題は未だ泊まるあてのない最後の2泊である。「それはまた明日以降調べてみるよ」とトーゴ人は楽観的である。治安と体調を考えたらホテルを移動なんていう面倒なことは極力したくないが、我々にはこれしか選択肢がない。

11月25日 陸の孤島の最高級ホテル
この日の夜、最高級ホテルにうつる。部屋は快適である。ちゃんと部屋に金庫も備えられている。エントランスに柄の悪い人もたむろしていない。これで一安心である。しかしこのホテルは都心から少し離れた場所にポツンとたっていて、近辺にレストランはおろかスーパーもない。おとなしくホテルの地下にあるレストランで7000円のディナーを食べる。

インターネット接続が若干改善したので妻とスカイプをする。とりあえずインドネシアのときと比べて体調は復活してきたことを報告する。妻が送ってくれた白い砂浜と美味しそうな料理の写真が今は目の毒だ。



11月26日
翌朝は4000円の朝食を食べて仕事に向かう。なお食事のクオリティは価格に見合うものではない。4000円の朝食と7000円の夕食を食べ続けるのはバカバカしいということで我々は、仕事がおわってから、車で15分ほどのところにあるモールに朝ごはんや水を買いに行くことにする。
この日は雨がふっていた。そしてこの雨で市内の道が水没し、車で15分のはずのショッピングモールに辿り着くのにたっぷり1時間半かかった。閉店間際のスーパーに滑り込み、水とチョコレートとパンを買う。決して安くない。
モールに併設のフードコートでディナー。よくわからない焼きそばのようなものが1100円。この国の物価は不可解だ。


11月27日 ついに我々は恥を捨てて大使館に駆け込むことまでを検討しだした。
食べ物と寝る場所が儘ならないストレスがたまり続ける。そして、こんな状況に我々をおいこんでおきながら、手助けをしてくれないトーゴ人への怒りが膨れ上がる。なお彼はのうのうと会議が行われるホテルに止まっているのである。
そんな極限状況のなか、我々はこの日トレーニングを無事終えた。成し遂げたというよりは生き延びたという感が強い。

感慨にひたる暇はない、仕事がおわったら即ホテルに戻り、翌日のホテル探しをする。まずは最高級ホテルに延泊を交渉。3秒で断られる。しかし彼らは我々の代わりに電話帳片手に市内のホテルにかたっぱしから電話をかけてくれた。フランス語は全くわからないが、部屋がないと断られているのは感じられる。
長いこと電話した末に、車で40分の場所にホテルではなくシェアハウス(マンション)のようなものがあるという。スイートタイプだがベッドは一つしか無い。「(ベッド一つだけど)どうする?」と聞かれれたので、「それでお願いします。」と即答。

ホテルのレストランでトーゴ人とこの街への恨みつらみを並べつつ、軽く食事をする。明日はチェックアウトしないといけないので、ビールを一本だけ飲んで部屋にもどり身支度をする。

11月28日
スーツケースにすべてを詰め込んで、朝のロビーで同僚と合流。これから同僚はそのマンションへ、僕は会議へと向かう。僕はこの日、プレゼンをすることになっていた。ホテルのスタッフが同僚をウィークリーマンションへ送り届けてくれるらしい。理由はよくわからない。治安があまりよくない地域なのかもしれない。実は予約ができていないのかもしれない。

1人スーツとネクタイという出で立ちで会議へ向かう。この日は今回の滞在で唯一、多くの関係者が集っている場に参加した。多くのコートジボアール人にあった。みんな陽気で、そして自分の国に誇りをもっていることを感じることができた。
プレゼンの持ち時間は20分。この手の会議にありがちな概念論ではなく、みんなですぐに取り掛かれる提案をした。反応は上々である。

昼ごはんを食べ、色々な人に挨拶をし、会場を去る。同僚の待つマンションへいざ出発である。しかし住所をつげてもドライバーは場所がわからないようだ。知り合った英語を少し話せるコートジボアール人に通訳をお願いしても、結果はかわらない。辺鄙な場所にあるのだろう。何台か断られた末になんとかタクシーを捕まえる。
賑やかな通りを2つほど素通りし、橋を2つわたり、住宅街を通りぬけ、さらに何もない道をグネグネ40分走った先にそのマンションはあった。

外観は綺麗である。部屋もモダンだ。しかしベッドが一つしかないのは聞いていた通りである。セミダブルのベッドで男二人が肩寄せ合って寝るのは不可能だろう。僕はソファーで寝ることを決意した。アビジャンの朝は冷え込むが、毛布があればなんとかなるだろう。夕食後に受付に電話をした。部屋にもう一枚毛布がほしいと伝える。

そして冒頭でかいた、バカバカしい悲劇が起きた。

部屋に戻った僕は同僚にことの顛末を報告した。40分もかけて結局シーツ1枚しか手に入れられなかったことを。同僚は微笑み、そして「僕がソファーで寝るので、ベッドつかってください」と穏やかに言った。先週のインドネシアでのこと、このあと更に僕はアメリカで仕事があることを心配してくれたのだ。想定していなかった申し出だったが、結局僕はその言葉に甘えることにした。あと1週間アメリカでの仕事を終えるまでは倒れるわけにはいかない。いやもちろんその後だって倒れたくはない。

僕はベッドで寝て、同僚はソファーで一夜を明かした。こうして長い1日がおわった。

11月29日 脱出の時
アビジャン最終日、この日の夜我々はコートジボアールを発ち、同僚は日本へ帰国し、僕はアメリカへ向かう。
既に仕事をする体力を全く削がれていた我々は、チェックアウト時間ぎりぎりまで部屋で休むことにした。僕はトーゴ人含めたアフリカの仲間に長い長いメールを書いた。要約すると「もうアフリカなんて来ねえよ!ウワァァン - ヽ(`Д´)ノ」とい書いた。僕らの時間と体力とお金は有限の資源だ。だったら資源を有効に活用される場所と相手を選ぶ責任が僕にはある。

ドラマチックな一夜を提供してくれたマンションをチェックアウトし、タクシーに乗り込んだ。埃っぽい道をタクシーに揺られて都心に向かいながら、この1週間のコートジボアールでの出来事を反芻しながら思った、インドネシアで壊したお腹はいったいいつから復活したのだろうかと。

12月1日 後日談と展望
今、僕はこの文章をワシントンD.C.で書いている。ここでの滞在はまだ後数日残っている。油断はできない。

とはいうもののバンドンとコートジボアールの後のアメリカは信じられないほど快適だ。日本食レストランはあるし、スターバックスのコーヒーも飲める、地下鉄があり、タクシーにはメーターがついている。インターネットは早く、会議は時間通りに始まり、論理の優劣で物事が決まる。それはどこまでも洗練された世界だ。
たまたまホテルでゼロ・ダーク・サーティーというCIAがビン・ラディンを殺害する映画を見たが、その中では暴力ですら厳格な秩序の中に位置していた。

この2週間僕はインドネシアとコートジボアールを駆け抜けた。それ以前に少なからず色々な国を経験してきた。国を形容するときに途上国、先進国というくくりをあまり意識したことはないが、「噛みごたえ」というものは絶対にある。世界には硬くてゴツゴツしていて大きくて噛みにくい国と柔らかくてツルッとしていて舌触りのいい国とその中間の国がある。
アビジャンは噛みごたえ抜群だった。インドネシアもバンドンは結構噛みごたえがあったし、噛み締めたら未知の汁がでてくる予感があった。対してアメリカは全てがあまりに洗練されていて噛みごたえがない。

しばらくしたら、熱さが喉元を過ぎたら、僕はまたあの強烈な噛みごたえを欲するのかもしれない。そんな時に今回の苦しさを思い出させる克明な記録が必要だ。それが長々とこのブログを書いた理由である。つまりこの文章は未来の自分へ向けた警告である。