ふと、学生時代のことを思い出した。フランスのドーヴィルという静かな街に海を見にいった生まれて初めての海外一人旅のことを。思い出が風化する前につづっておきたいだけなので、オチもなにもない。しかも字数が10000字を超えてる。
奇跡の卒業
学生時代の僕はひかえめにいってもかなりダメなやつだった。4年生の時、卒業までに取得しなければならない単位は34も残っていて、履修したのは34単位だった。つまり1つたりとも単位を落とすことが許されないという背水の陣だった。卒業できるだろうか?と不安だった。卒業者はまず掲示板に張り出される。肌寒い3月のある日、僕は死刑宣告をうける覚悟で通いなれた坂をのぼり、そして掲示板に自分の学生番号をみつけた。卒業出来たのである。我が生涯における3大幸運の1つ、神様からのプレゼント、完全なラッキーパンチであった。
運良く、卒業が決まった僕はふと「卒業旅行」なるものをしてみたいと思い立つ。4月から社会の一員として働きはじめる、その前に自由を謳歌してみたかったのだ。当時のITバブルのおかげで僕は時給のよいアルバイトをしており、懐は温かかった。
父親に「社会に出たら、長い休みは取れない。ヨーロッパなんかは今行かないといけないぞ!」と言われたのが説得力があり、行き先はヨーロッパに決めた。
ヨーロッパのどこか?そんなもんイギリスとフランスに決まっている。海外事情にうとい僕にとって大英博物館でミイラを見たい、ルーブル美術館でモナリザを生で見たいというのが数少ない具体的に描ける目標だった。
あてのないヨーロッパの旅
イギリスを数日旅してからユーロスターという鉄道でフランスに入った。パリは予想以上に楽しい町であった。ルーブル美術館は素人の僕でもわかるような有名作品がわんさかあった。ご飯もおいしかった。
パリを旅行して3日くらい。計画をたてずに旅行をしていた僕は時間を持て余してしまった。帰りの飛行機が出るのはまだ一週間ある。僕はパリの本屋で手に入れた地球の歩き方(フランス)を読み返し、行ける場所を考えることにした。食の都リヨンあるいはモンサンミッシェルは行ってみたいけれど遠い。そして飛行機にはこれ以上のりたくない(怖いから)。あまりに観光客が多い、いわゆるベタな場所はなんかかっこわるい気がする。
ほどほどに近く、ほどほどに遠く、ほどほどに人気だけれども、ほどほどに人気がないそんな場所を探していた。
そして見つけた。 『ドーヴィル(Deauville)』という町を。
パリから北に向かうノルマンディー地方の海沿いの町で、高速鉄道で数時間でいけるという。ビーチがきれいで夏には避暑に来るお金持ちでにぎわうらしい。さらに地球の歩き方にはドーヴィルからすぐ近くにはエトルタというさらにマイナーな町があって、おもしろい形の岩があるという。僕は直感でドーヴィルにかけてみることにした。
そして北の街へ、
高速鉄道はパリの北駅から出る。英語もしゃべれない、旅行経験もゼロに等しい僕が、どうやって切符を買ったのか定かでないが、とにかくやたらと駅構内を歩き回って、ドーヴィル行きの電車がでるプラットフォームを必死に探しあてた記憶だけはある。
なんとかドーヴィルについた。生まれて初めて外国で自分で行き先を決め、切符を買い、目的とする場所にたどり着いたという喜びを全身に感じながら駅の外にでる。
ひと気がない。
ドーヴィルは閑静を通り越して閑散とした町だった。3月の海辺の町なんてそんなものだと今となっては思う。駅前は人影がまばらで、コンビニもなく、バス停もなく、ホテルを予約しようと思ってたどりついた観光案内所は無人だった。
コンビニで1つだけおにぎりを買って食べたいくらいの空腹を感じて、駅の周りを探すとそこには一件だけ喫茶店があった。外から店内を覗き込むと、真っ暗で客はいない。怖いからやめようという気持ちは空腹に負け、僕はその店に足を踏み入れた。
「ボンジュール」
フランス語以外を話す気はないからねと言わんばかりの先制パンチを食らう。
つらい。 メニューを渡されたが、当然フランス語でかかれていて、読めない。パリでは英語メニューがあったのに…
タルトの洗礼
しばらくまったく意味不明なメニューと格闘し、Tarte Normandiという文字を見つけたときはうれしかった。このノルマンディー地方で人気のタルトが出てくるんだろうと予想がついたからだ。コーヒーとTarte Normandiをオーダーしてみた。程なくして店主が飲み物とタルトを持ってくる。まさしく思い描いた、日本でもよくあるドライフルーツタルトだ。
さっそく食べようとすると店主がチッチッチと指を左右にふり、おもむろに茶色い液体をタルトにかけて右手に隠しもっていたライターの火を近づける。僕のタルトは一瞬青い炎につつまれた。どうやらブランデー(後にカルバドスというこの地方名産のお酒と判明)をかけて火をつけるという演出らしい。今で言うところのドヤ顔というやつでニコニコと僕をみつめる店主の手前「わおーー!」と大げさにおどろいてみせるフリをしたが、実のところ僕はまったくお酒が飲めなかった。カルピスサワー1杯で酔いつぶれて寝てしまうほどに弱かった。
なぜそのままで美味しいタルトにブランデーをかけてすべてをぶちこわしてしまうのか。意気消沈して食べたタルトはあたりまえだが「お酒の味」がした。
フランスでフランス語ができないことの難しさを実感した。
ドーヴィルの孤独
ドーヴィルではいろいろな経験をした。昼ご飯を食べにレストランに入ると、横で推定70台のおばあちゃん二人組がワインを二本空けているのには驚いた。レストランの少なさにも驚いた。もちろん道を歩いていても看板が気づきにくいだけだったのだろう。ただ当時の僕にはホテルの人や道行く人にレストランの場所を聞く度胸も英語力も無かった。冬のビーチは人の気配がなく寒々しかった。最初に入った何軒かの店で英語で話しかけて、あからさまに嫌そうなそぶりをされた。数日の間、言葉を交わすのはホテルのフロントの英語が堪能なスタッフだけ。孤独を感じる日々だった。
そうそうエトルタにもいってみた。タクシーに乗って30分くらい。白い砂浜の先に断崖がある光景はガイドブック通りに美しかった。持っていた使い捨てカメラで写真をとった。時間だけはあるのでウロウロ歩き回ったが記憶にのこるようなものはなかった。
帰りもタクシーにのったが、今度は45分もかかった。ぼったくられたのだろう。
こんな閑散とした町で日本人にも遭遇した。その日僕は手持ちのお金が尽きてしまい、銀行にでかけた。あいにくその日は銀行が定休日で両替できなかった日本円を片手に「明日まで残り少ない現金でどう生きのびるか?」を考えながら、すごすごとホテルに帰る道すがらだった。町のはずれで日本の若い女性4人組とすれ違った。すれ違い様向こうが「こんなところにも日本人いるんだねぇ」と話しているのが聞こえた。
事情を話して日本円を両替して欲しいとおねがいしてみるという案も浮かんだが、それを実行に移す勇気はなかった。
ドーヴィルにはけっきょく5泊くらいしただろうか。あの町でコミュニケーション能力ゼロの僕がどうやって過ごしていたのか今となっては不思議である。ただ新しいレストランを試すのが怖くて、例のタルトは滞在中三度もたべた。やることがなくホテルの部屋でただ寝ていた日もあった。
帰りの飛行機はシャルルドゴール空港発、韓国インチョン経由、成田行きだった。インチョンでの乗り換えでなぜか関空行きを待ち続けた僕は、搭乗口で間違いに気づいた。あわてて成田行のゲートに走った。飛行機は既に飛び立って影も形もなかった。
「旅にハプニングはつきもの♥」と書かれたガイドブックの字がにじんだ。
反省もした。すこしだけ
この文を読んだ方は旅が楽しかったのか疑問に思われるかもしれないが、僕は楽しかった。自分で行き先を選び、気ままに行動することが。日本に帰ってからは友達に経験をちょっと大げさにして伝えた。
「突然海がみたいと思いたって、北をめざしたよ。なんかみんなが行くような観光地はいやでさー」
「いやー、フランス人は全然英語下手だね」
計画性の無さや自分の英語力が足りてなかったことはすっかり棚にあげた。
一方でこの旅でコミュニケーションできないとどうにもならんという状況をはじめて経験した。世界は広く僕らが理解できない言葉で談笑し、昼間からワイン2本をあける怪物のようなおばあちゃんがいるということを知った。コミュニケーションがとれない世界で自分がどれだけ無力で孤独かを知った。世界ってやつを初めて実感した瞬間だった。
その後、仕事でもプライベートでもいろいろな場所にいったが、この時ほどの孤独を感じたことは一度もない。もし旅行の行き先がハワイのような日本語でも通じる場所だったら、あるいは僕が友達と旅していたら、今ほどコミュニケーションがとれないことに対する危機感をもっていないだろう。英語を頑張って勉強しようとは思わなかったかもしれない。そう考えると人生の一つの分岐点だったの言ってよいのではないか。
だからこそ
だから今、コミュニケーションがとれない世界で苦しんでいる人をみると、誰でも最初からうまくいくはずがないし、高い壁を感じた人の方が危機感を持つぶんだけこれから伸びるよといいたくなる。
いやちょっと違うな。最初からどんな壁もとっぱらって打ち解ける才能を持った人がいるのは事実だ。僕にその才能はないけれど、語学などのテクニックにすぐれていたり、人柄やエネルギーでまわりを引きつける人をたくさん見てきた。
だから僕がいいたいのは、もしあなたがそういう天才でなかったとしてもだ、あとからコミュニケーション能力は身につけられるから心配しなくていいということだ。
僕は今、フランス語ペラペラになって、もう一度ドーヴィルに行ってやろうと思っている。今度はあの喫茶店でタルト以外の何かを注文してやるんだ。。。
奇跡の卒業
学生時代の僕はひかえめにいってもかなりダメなやつだった。4年生の時、卒業までに取得しなければならない単位は34も残っていて、履修したのは34単位だった。つまり1つたりとも単位を落とすことが許されないという背水の陣だった。卒業できるだろうか?と不安だった。卒業者はまず掲示板に張り出される。肌寒い3月のある日、僕は死刑宣告をうける覚悟で通いなれた坂をのぼり、そして掲示板に自分の学生番号をみつけた。卒業出来たのである。我が生涯における3大幸運の1つ、神様からのプレゼント、完全なラッキーパンチであった。
運良く、卒業が決まった僕はふと「卒業旅行」なるものをしてみたいと思い立つ。4月から社会の一員として働きはじめる、その前に自由を謳歌してみたかったのだ。当時のITバブルのおかげで僕は時給のよいアルバイトをしており、懐は温かかった。
父親に「社会に出たら、長い休みは取れない。ヨーロッパなんかは今行かないといけないぞ!」と言われたのが説得力があり、行き先はヨーロッパに決めた。
ヨーロッパのどこか?そんなもんイギリスとフランスに決まっている。海外事情にうとい僕にとって大英博物館でミイラを見たい、ルーブル美術館でモナリザを生で見たいというのが数少ない具体的に描ける目標だった。
あてのないヨーロッパの旅
イギリスを数日旅してからユーロスターという鉄道でフランスに入った。パリは予想以上に楽しい町であった。ルーブル美術館は素人の僕でもわかるような有名作品がわんさかあった。ご飯もおいしかった。
パリを旅行して3日くらい。計画をたてずに旅行をしていた僕は時間を持て余してしまった。帰りの飛行機が出るのはまだ一週間ある。僕はパリの本屋で手に入れた地球の歩き方(フランス)を読み返し、行ける場所を考えることにした。食の都リヨンあるいはモンサンミッシェルは行ってみたいけれど遠い。そして飛行機にはこれ以上のりたくない(怖いから)。あまりに観光客が多い、いわゆるベタな場所はなんかかっこわるい気がする。
ほどほどに近く、ほどほどに遠く、ほどほどに人気だけれども、ほどほどに人気がないそんな場所を探していた。
そして見つけた。 『ドーヴィル(Deauville)』という町を。
パリから北に向かうノルマンディー地方の海沿いの町で、高速鉄道で数時間でいけるという。ビーチがきれいで夏には避暑に来るお金持ちでにぎわうらしい。さらに地球の歩き方にはドーヴィルからすぐ近くにはエトルタというさらにマイナーな町があって、おもしろい形の岩があるという。僕は直感でドーヴィルにかけてみることにした。
そして北の街へ、
高速鉄道はパリの北駅から出る。英語もしゃべれない、旅行経験もゼロに等しい僕が、どうやって切符を買ったのか定かでないが、とにかくやたらと駅構内を歩き回って、ドーヴィル行きの電車がでるプラットフォームを必死に探しあてた記憶だけはある。
なんとかドーヴィルについた。生まれて初めて外国で自分で行き先を決め、切符を買い、目的とする場所にたどり着いたという喜びを全身に感じながら駅の外にでる。
ひと気がない。
ドーヴィルは閑静を通り越して閑散とした町だった。3月の海辺の町なんてそんなものだと今となっては思う。駅前は人影がまばらで、コンビニもなく、バス停もなく、ホテルを予約しようと思ってたどりついた観光案内所は無人だった。
コンビニで1つだけおにぎりを買って食べたいくらいの空腹を感じて、駅の周りを探すとそこには一件だけ喫茶店があった。外から店内を覗き込むと、真っ暗で客はいない。怖いからやめようという気持ちは空腹に負け、僕はその店に足を踏み入れた。
「ボンジュール」
フランス語以外を話す気はないからねと言わんばかりの先制パンチを食らう。
つらい。 メニューを渡されたが、当然フランス語でかかれていて、読めない。パリでは英語メニューがあったのに…
タルトの洗礼
しばらくまったく意味不明なメニューと格闘し、Tarte Normandiという文字を見つけたときはうれしかった。このノルマンディー地方で人気のタルトが出てくるんだろうと予想がついたからだ。コーヒーとTarte Normandiをオーダーしてみた。程なくして店主が飲み物とタルトを持ってくる。まさしく思い描いた、日本でもよくあるドライフルーツタルトだ。
さっそく食べようとすると店主がチッチッチと指を左右にふり、おもむろに茶色い液体をタルトにかけて右手に隠しもっていたライターの火を近づける。僕のタルトは一瞬青い炎につつまれた。どうやらブランデー(後にカルバドスというこの地方名産のお酒と判明)をかけて火をつけるという演出らしい。今で言うところのドヤ顔というやつでニコニコと僕をみつめる店主の手前「わおーー!」と大げさにおどろいてみせるフリをしたが、実のところ僕はまったくお酒が飲めなかった。カルピスサワー1杯で酔いつぶれて寝てしまうほどに弱かった。
なぜそのままで美味しいタルトにブランデーをかけてすべてをぶちこわしてしまうのか。意気消沈して食べたタルトはあたりまえだが「お酒の味」がした。
フランスでフランス語ができないことの難しさを実感した。
当時の写真は残っていない。これは雰囲気が似ているポートルイスでの一枚。 |
ドーヴィルの孤独
ドーヴィルではいろいろな経験をした。昼ご飯を食べにレストランに入ると、横で推定70台のおばあちゃん二人組がワインを二本空けているのには驚いた。レストランの少なさにも驚いた。もちろん道を歩いていても看板が気づきにくいだけだったのだろう。ただ当時の僕にはホテルの人や道行く人にレストランの場所を聞く度胸も英語力も無かった。冬のビーチは人の気配がなく寒々しかった。最初に入った何軒かの店で英語で話しかけて、あからさまに嫌そうなそぶりをされた。数日の間、言葉を交わすのはホテルのフロントの英語が堪能なスタッフだけ。孤独を感じる日々だった。
そうそうエトルタにもいってみた。タクシーに乗って30分くらい。白い砂浜の先に断崖がある光景はガイドブック通りに美しかった。持っていた使い捨てカメラで写真をとった。時間だけはあるのでウロウロ歩き回ったが記憶にのこるようなものはなかった。
帰りもタクシーにのったが、今度は45分もかかった。ぼったくられたのだろう。
こんな閑散とした町で日本人にも遭遇した。その日僕は手持ちのお金が尽きてしまい、銀行にでかけた。あいにくその日は銀行が定休日で両替できなかった日本円を片手に「明日まで残り少ない現金でどう生きのびるか?」を考えながら、すごすごとホテルに帰る道すがらだった。町のはずれで日本の若い女性4人組とすれ違った。すれ違い様向こうが「こんなところにも日本人いるんだねぇ」と話しているのが聞こえた。
事情を話して日本円を両替して欲しいとおねがいしてみるという案も浮かんだが、それを実行に移す勇気はなかった。
ドーヴィルにはけっきょく5泊くらいしただろうか。あの町でコミュニケーション能力ゼロの僕がどうやって過ごしていたのか今となっては不思議である。ただ新しいレストランを試すのが怖くて、例のタルトは滞在中三度もたべた。やることがなくホテルの部屋でただ寝ていた日もあった。
帰りの飛行機はシャルルドゴール空港発、韓国インチョン経由、成田行きだった。インチョンでの乗り換えでなぜか関空行きを待ち続けた僕は、搭乗口で間違いに気づいた。あわてて成田行のゲートに走った。飛行機は既に飛び立って影も形もなかった。
「旅にハプニングはつきもの♥」と書かれたガイドブックの字がにじんだ。
反省もした。すこしだけ
この文を読んだ方は旅が楽しかったのか疑問に思われるかもしれないが、僕は楽しかった。自分で行き先を選び、気ままに行動することが。日本に帰ってからは友達に経験をちょっと大げさにして伝えた。
「突然海がみたいと思いたって、北をめざしたよ。なんかみんなが行くような観光地はいやでさー」
「いやー、フランス人は全然英語下手だね」
計画性の無さや自分の英語力が足りてなかったことはすっかり棚にあげた。
一方でこの旅でコミュニケーションできないとどうにもならんという状況をはじめて経験した。世界は広く僕らが理解できない言葉で談笑し、昼間からワイン2本をあける怪物のようなおばあちゃんがいるということを知った。コミュニケーションがとれない世界で自分がどれだけ無力で孤独かを知った。世界ってやつを初めて実感した瞬間だった。
その後、仕事でもプライベートでもいろいろな場所にいったが、この時ほどの孤独を感じたことは一度もない。もし旅行の行き先がハワイのような日本語でも通じる場所だったら、あるいは僕が友達と旅していたら、今ほどコミュニケーションがとれないことに対する危機感をもっていないだろう。英語を頑張って勉強しようとは思わなかったかもしれない。そう考えると人生の一つの分岐点だったの言ってよいのではないか。
だからこそ
だから今、コミュニケーションがとれない世界で苦しんでいる人をみると、誰でも最初からうまくいくはずがないし、高い壁を感じた人の方が危機感を持つぶんだけこれから伸びるよといいたくなる。
いやちょっと違うな。最初からどんな壁もとっぱらって打ち解ける才能を持った人がいるのは事実だ。僕にその才能はないけれど、語学などのテクニックにすぐれていたり、人柄やエネルギーでまわりを引きつける人をたくさん見てきた。
だから僕がいいたいのは、もしあなたがそういう天才でなかったとしてもだ、あとからコミュニケーション能力は身につけられるから心配しなくていいということだ。
僕は今、フランス語ペラペラになって、もう一度ドーヴィルに行ってやろうと思っている。今度はあの喫茶店でタルト以外の何かを注文してやるんだ。。。