麦茶が好きだ。蒸し暑い夏に飲む冷えた麦茶は砂漠のオアシス味であるし、こってりフレンチと重いワインをのんで帰宅した家で飲む麦茶は全ての無茶を優しく包み込む滋味深い飲み物である。
麦茶の飲み時
我が家では弟者が買った伊藤園の麦茶パックに熱湯を注いで麦茶を作っている。麦茶パックが溶け出し、「ただの水」が徐々に「小麦色の麦茶」へと変っていく。ゆるやかで美しい変化をみるにつけ僕は水と麦茶の境界がどこであるのかについて明確な線引きをしたいという衝動に駆られる。「もう飲める」「いや、まだ早い」そんないつものせめぎ合いに決着を!
ここで持ち前の妄想力をもって、水が素の自分であり、麦茶がプロフェッショナルな自分という風に考えるとこれはなかなかに根深い問題なのである。
- 何の色も持たなかった自分は立派な麦茶になれるのか?
- もしかしたら、既に「私は麦茶です」と名乗って問題ないレベルまで濃くなっているのではないか?
- いやいや、自分で思っているだけでまだ単なる色付き水に過ぎないのではないか?
- もしや、既に水が腐って、どれだけ時間がたっても麦茶になれる見込みのない酸っぱくて黒いだけの水なのか?
- そもそも周りの麦茶達は何をもって自分は水ではなく麦茶であると考えているのか?
- いやそれ以前に自分は麦茶ではなくカルピスを目指していたのではないか?
悩みはつきないのである。
8分くらい??
そんな悩みもあったので、水が麦茶に変わりゆく過程を動画におさめてみた。
Youtube
ニコニコ動画
この例で行くと、開始から8分30秒の時点で麦茶に変ったといって差し支えないと思う。
ここで強調したいのは「8分30秒の時点で麦茶に変った」というのは最後まで過程を見届けて初めて分かることであって、最初からこの光景を見守っていたら8分30秒たっても、「まだまだ濃くなれる。まだ麦茶とはいえない。」と謝った判断をする可能性が十二分にあるということである。
自分の事は自分が一番よく分かっていると考えるのは世の常だが、自分が立派な麦茶なのか、茶色い水なのかは自分や自分に近しい人には分からないのだ。全くの第三者からの声はその意味でかけがえの無いものだと、僕は思う。
そんなわけで
どんなわけで? とにかく今年も一年お世話になりました。まだまだうす茶色い水な私ですが、来年もよろしくお願いいたします。