クリスマスがやってくる
今年も年に一度のあの、クリスマスってやつがやってくる。例年このビッグイベントに対する構えがないまま当日を迎えてしまい、手ぶらの居心地悪さから「オレは仏教徒だから関係ない」という定番の負け惜しみを吐くのが精一杯の私であるが、今年は前向きにクリスマスに向き合い、このイベントの意味を考えてみたいと思ったのである。
ディケンズの名作クリスマス・キャロル
というわけでディケンズの名作クリスマス・キャロルを読んだ。主人公スクルージは偏屈でたいそう意地の悪い守銭奴である。金持ちなのに施しや親切をする事を嫌い、誰にも心を開かない。孤児への寄付依頼は顧みることもしない。唯一の肉親である甥はそんなスクルージとは対照的に、貧しいが心優しい人物である。なにかと叔父のスクルージを気遣うが、スクルージはそんな甥にも冷たく当たる。物語では3人の精霊が次々とスクルージのもとに現れる。そしてこの拝金主義の”人でなし”に、彼の過去と現在そして未来を霊的な力で見せつける。世俗に汚されていない過去の自分、貧しくとも助け合って生きる現在の人々、金はあっても周りに顧みられることなく死んでいく未来の自分、スクルージはそこから過ちを悟る。目から鱗がバリバリ落ち、物語はスクルージが改心して大団円をむかえる。めでたしめでたしである。
この作品を通してディケンズが訴えることは非常にシンプルだ。それは「クリスマスは富めるものが貧しいものを助け、誰もがお互いに生きることの素晴らしさを確認する日である。」ということである。分かりやすい。ディケンズの時代はこれでよかったのである。
富めるものが貧しいものを助けるのか?
が、現代のクリスマスはちょいと複雑だ。アメリカでは自動車大手3社(ビッグ3)が議会に物乞いに訪れたのをご存じだろうか。「金融不安という僕らには、ちょっとどうしようもない大きな問題のせいで家計が火の車です。車屋だけに(笑)このままでは年を越せません。お金を恵んでください。」と陳情にきたのである。有名な話だが、彼らは一人あたりの人件費がトヨタやホンダの1.5倍という効率の悪い経営をし、あろうことかプライベートジェットでワシントンDCにある議会に馳せ参じ、さらにさらに金融支援の代償として議会から約束を求められた大幅なリストラは拒んでいるのである。
経営が苦しいのは事実のようだ。だが誰もが疑問に思うはずだ。救済に何千兆円という税金を投入するのは「富めるものが貧しいものを助ける」ことなのだろうかと。
お互いに生きることの素晴らしさを確認する日か?
では仮にビッグ3に財政支援が行われたとして、それでも従業員の何割かをリストラする事は、国民に対する言い訳としても不可避だ。クリスマスにリストラ、私はそれをこの身で経験している。
今から数年前のこと、私が在籍していた会社も突如として業績が悪化し、クリスマスに従業員の10%程度がレイオフされるという出来事があった。部署単位で何人づつ退職に応じるよう説得すべしという命令が12月23日に下ったらしく、そのプラン通り何人かが数日後に会社を追われた。残った社員の中でも後に「血のクリスマス」として語り継がれる悲劇であった。
お別れ会のようなささやかな会が催され、やめていく人たちが短いスピーチをする。
「この会社の雰囲気が好きでした、やめるのは非常に残念ですが、残れる皆さんは頑張ってください。」
みんな不思議なほど、泣き言を言わない。普段強気だった社長だけが涙を隠せないほどグシャグシャになっていたことを思い出す。
リストラというのはこういう事なんだなと思いながら、ただ静かに聞いていた。つまり大人の椅子とりゲームなんだと感じた。退職していく人たちに対して申し訳ないという気持ちはもちろんあった。が、自分が生き残れてよかったと思ったのは少なからず事実である。その夜、「クリスマスはお互いに生きることの素晴らしさ確認する日」なんて語る奴はいなかった。
このクリスマスに、アメリカで何が起こるのか見守りたい
そんなわけで今年のクリスマスにアメリカで繰り広げられるのは、名作の教訓にはほど遠い試煉の連続だろうと予想している。願わくば「クリスマスは富めるものが貧しいものを助け、誰もがお互いに生きることの素晴らしさを確認する日である。」という言葉が真実でありますように。クリスマスが強いものが弱いものを叩く日でありませんように。
クリスマスの意味を考えるためにディケンズの名作クリスマス・キャロルを読んだはいいが、ずいぶんと時化た話になってしまった。
クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)
池 央耿