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Aug 7, 2020

文系社会人の「博士への長い道」



はじめに

私は、2014年4月に慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科の後期博士課程社会人コースに入学し、2019年9月に単位取得退学し、2020年7月に博士(政策・メディア)を授与された。以下に記すのは私自身の体験記である。特に社会人で、これから博士号を取ろうとする人の参考になればと思って書いている。

博士号取得への道のりは、百人百様である。文系、理系、医療系でも異なる。大学院によっても異なる。さらに言えば、同じ大学院で同じ先生の下で学んだ1つ上の先輩と、1つ下の後輩と私との違いも小さくない。博士課程での研究はユニークなものではなければならない、だからその研究の道のりも一様ではない。ここに振り返るのは、毎年国内だけで10000人以上に授与される博士号のうちの1つの事例である。

私の事例は、①博士課程の社会人コースに属するいわゆる社会人ドクターだったこと、②ブログ界隈に珍しい文系の研究者であること、③修士号を持たずに博士課程に入った、という3つの特徴があると思う。


なぜ大学院か

私は、学部卒業以来、一貫してサイバーセキュリティ技術者として生きてきた。JPCERT/CCという非営利団体で働いている。JPCERT/CCは年間2万くらいのサイバー攻撃に関する報告を国内外から受け、その対応のアドバイスや攻撃の停止のための調整を行う組織である。

2010年くらいまで、基本的にこの世界は情報セキュリティと呼ばれていた。サイバー攻撃をするのは自己顕示欲にかられた若者か、金銭目的の犯罪者だった。ところが軍隊やインテリジェンス機関にハッキングを行う能力が備わり、国家によるサイバー攻撃がみられるようになってきた。そして、サイバー攻撃に関する国際的な調整は、技術のみならず、法律や政治や文化などの幅広い知識が求められるものに変化してきた。

そしてその時代の変化に追いつくための作業は一人では難しそうだった。国際政治や安全保障の分野について大学院で研究したいと思っていた。


博士号取得までの流れ


博士号取得にはとても時間がかかった。何にそんな時間がかかったのか自分でもよくわからない。


2013年

4月

情報セキュリティに関する国際ルールのあり方やサイバー戦争の時代に政府、企業、CSIRTがどうリスクコントロールしていくべきかという点に興味を持ち、もう一度大学で勉強したいと漠然と考えていた。

慶應のT先生がこの分野で研究実績豊富であったが、「2014/4より在外研究で日本を離れるため、大学院生を受け入れていない。」と個人Webサイトに明記されていた。T先生とはなにかの研究会で一度だけ会ったことがあった。Webサイトに乗っているアドレスにメールすると、一度話してみましょうということになり、藤沢で相談に乗っていただく。指導を引き受けていただけるということで1年後の2014年4月入学を目指すことに。


10月

博士課程の入試出願書類は、TOEFLの受験や学部時代の成績証明書の取得など時間がかかる作業が多かった。自分のように、修士課程を経ていない場合は、出願前に社会人として修士相当の研究実績を積んでいるので、博士課程への出願を許可するという紙をもらう必要がある。

出願時にプログラムを選ぶ。GR,HC,PS,EGなどの略称で表記される。同じ政策・メディア研究科の中でもプログラムによって作法や雰囲気がかなり違う。学位取得までの平均年数や取得率も違う気がする。しかし出願時点では、指導教員が所属するプログラム(私の場合はGR)を選ぶだけで、学生に選択の余地はない。入学後にプログラムを変更する人は稀にいた。


12月

入試は書類と面接で判定される。志願者と合格者の数が当時のWebサイトに掲載されていたが、たまに落ちる人がいるという程度である。進学を希望する理由や、提出した研究計画書に沿った穏やかな確認作業という印象だった。時間は20分と短い。


クリスマス前のSFCは全く人気がなかった。

3日後にオンラインで合否が発表された。「受験番号9W2505の方は入学試験に合格しました。」


2014年

4月

4月頭に大学院ガイダンスというオリエンテーションがあり、藤沢へ。学生証をうけとり、メールなどの大学システムへのアクセスを得る。オリエンテーションでは学位取得の流れが説明された。当時と今では学位取得プロセスが若干違う。参考までに大学院ガイドに示されている、現在のプロセスの説明資料を以下に示す。



プロセスが複雑に感じるかもしれない。博士課程修了と博士号取得の2つの流れが1つの作業として表現され、さらにこの流れが学生の作業を示すものではなく、大学院の事務手続きの流れを示すものだからだろう。例えば、査読論文を書いてジャーナルに載せる、あるいは博士論文執筆という不可欠な作業が、ここでは触れられない。

大学院ガイダンスでは大学院のトップ(研究科委員長という)が教壇にたち、社会人でたった1年半で学位をとった人がいること、しかし学位取得率はそこまで高くないので頑張れと学生を鼓舞していた。当時のメモには「きっちり3年、できれば2年半で博士号を取得する」と書いてある。

入学前から準備をしていたので、早速この月にグローバル・ガバナンス学会大会での口頭発表を行う。


6月

博士課程最初の誤算がおきる。FIRSTという国際団体の理事選挙に出ることになり、めでたく当選した。昼夜土日を問わないメールの波、そして月に1-4回の深夜の電話会議がここから4年間続いた。昼の仕事(JPCERT)、夜の仕事(FIRST)、大学院の掛け持ちの結果、どの仕事も中途半端になり、どこにいっても「メールの返事できてなくてすいません。」から会話が始まるという、よろしくない状況に陥る。心理的多重債務者である。


FIRSTの理事と共に

この国際団体の仕事では、加盟を希望するスーダンやイランの組織の扱いを巡って、米国のOFAC規制などを理解することを強いられた。国際団体を標榜すれど、銀行口座が米国にあれば、米国の規制を受けるという当たり前を経験し、グローバル・ガバナンスや国際関係論を見る視点が少し変わった。経験は博論にも強く反映された。


9-12月

ワシントンD.C.で行われたTPRC42という国際会議でポスター発表を行った。これで博士の要件の1つ国際会議での発表をクリア。最大の難関は現地でポスターを印刷することだった。2度目があるなら、素直に国内で印刷して機内持ち込みする。

ポスタープレゼンテーションは初めてだった


さらに大学院セミナーでのインフォーマル研究発表(10月)を行った。インフォーマルは特に合否がつくものではないのだが、初めて大学院の先生たちの前で発表をするということで、かなり緊張したことを覚えている。

まとめると2014年は誤算があったものの、入学前の準備のおかげで、きちんと成果を出せた年だった。


2015年

『サイバーセキュリティに関する国際連携の実態 日本におけるインシデント対応のデータ分析』などというタイトルで論文を書こうとしていた。が、5ページくらいのメモが出来上がっただけで、書き上げることができなかった。

論文が書けないのが苦しいので、研究というよりは勉強に逃避した。3ヶ月かけて、サイバーセキュリティの歴史をまとめた年表を作ったりした。良かれと思ってやったことだが、博論の中で1行も使うことなく結果的に無駄足だった。

2016年

前の年の12月に子供が産まれ、引っ越す。通勤時間が長くなり、子育てで時間がとられ、厳しい時期だった。およそ3ヶ月に1度の頻度でT先生にあう。そのたびに投稿できそうなジャーナルをおすすめしてもらう。『アフリカ諸国におけるサイバーセキュリティ政策』などと言うタイトルで書き始めたが、フィニッシュできず。

2015年と2016年は、まったく進捗のない2年間だった。


2017年

4月

知人からサイバー空間の規範を作る国際委員会を手伝うように頼まれる。時間的な余裕はないが、その経験で査読論文がかけるのではないかという下心もあり、関係各所にお願いして参加させてもらうことにした。後に、主査のT先生もこの委員会に関与していて、一緒に出張する機会が増えた。会議の空き時間などに、やっている研究へのアドバイスを貰えるようになって助かった。

この会議は本当に刺激的だった。単なるスパイ映画大好きおじさんだと思っていた人がMI6の元No.2だったり、ハッカー会議の創始者ジェフ・モスと喫煙所でいろんな雑談したり。ジョセフ・ナイには日本のアダルト動画事情を進講さしあげたので、人類の知の発展にもいくらか寄与したはずである。密室の議論の中からなんとか書ける部分を拾い集め、博論の中の一節として使うことができた。


エチオピアにて。


9月

丸2年なんの成果もなく学位取得に黄色信号が灯る。T先生からも急かされる。グローバル・ガバナンス学会に主要国のサイバーセキュリティ戦略に関する分析する論文を投稿した。この論文の締め切りと仕事の台湾出張がかぶる。日中はトレーニング講師をし、終わって夕方から朝まで論文書くという作業を2日続けた。2日目の徹夜の明け方、ファミマで買ったレモンジュースを飲みながら、「何故、自分はこんなつらい生活をしているのか」と台中の朝焼けに問うたことをよく覚えている。原因はあきらかに計画性の無さであるのだが。

結局、この論文は研究ノートとして採用されることになる。研究ノートというのは「学術論文としては認められないが、ジャーナルには掲載してあげますよ」という位置付けで、学位取得に必要な業績としてはカウントされない。査読論文2本という条件は翌年に持ち越される。論文の内容に全く満足できないが、なんにせよ、自分の書いたものがジャーナルに載ることが決まり、若干モチベーションがアップする。

2018年

1月

前年から温めていたテーマ「北朝鮮のサイバー攻撃能力」に本格着手した。年明けからひたすら北朝鮮についての文献を読む。大学院4年目に予備知識が無い研究テーマに取り組むのは、今振り返ると危険な賭けだった。ただ、仕事とは全く関係ない、未知の領域を独力で開拓している実感があり、純粋に楽しかった。

セネガルで北朝鮮の技術者たちの渾身の作を見学した。



6月

FIRST理事の2度目の任期満了でお役御免となった。これを境に一気に執筆の時間が取れるようになる。InfoComレビューに北朝鮮のサイバー攻撃についての論文を投稿し、10月に受理される。これで査読論文1本クリアする。

北朝鮮の論文が書き終わった直後、「改めて、CSIRTとは何か」という問いに改めて向き合う論文を書きだす。


11月

学会発表を実施したのが2014年の2回だけだったので、T先生からもう1回やっておいたほうがいいというアドバイス。情報通信学会で口頭発表の機会をいただく

査読論文を2つを通すという博士号取得の条件を1つクリアし、年末には2本目の論文もほぼ書き上がっていた。FIRSTの理事をやめた2018年7月から、研究がペースアップし、12月までの6ヶ月で成果を積み上げられた。FIRST、今考えても大変だったんだな。


2019年

2月

前年書いた北朝鮮に関する論文を英語にして公開する


3月

アーミテージプログラムと呼ばれるに教育プログラムに参加し、ワシントンD.C.へ出張する。複数の教員と博士課程の大学院生が参加し、研究についてアーミテージ御大からコメントいただいたり、シンクタンカーや学生と意見交換するというものだった。研究についてアーミテージ氏の前で発表し、質問というよりも尋問にあう。他に院生が3人参加していて、大学院生活の修学旅行みたいな気分だった。

引率の先生たちのシンポジウムでの振る舞いも勉強になった。特にS先生が、スライドはおろかメモも持たずに、ロジカルかつ流暢に自分の国際情勢分析を披露しているのには度肝を抜かれた。そもそも会場に手ぶらで来てた。日本でも指折りの国際政治学者にお供して回るワシントンD.C.という街は、仕事で来る時には決して見せない顔をしていた。

同じく3月に、情報通信学会に「CSIRTと国際CSIRTコミュニティ」というテーマで論文を投稿した。6月に査読を通って出版される。CSIRTで実際働いてきた社会人経験を活かした論文で、良いトピックだった。この論文が終わった後、主査から博論の準備を始めるよう指示があり、構想を練り始める。もともとあった問題意識を、既存の国際関係論やグローバル・ガバナンス論にうまく接続させるかが大事だった。


5月

大学院セミナーでThesis Proposalという博論の計画発表を実施し、合格した。本格的に博論の執筆が始まる。2019年春夏の週末は、ほとんど一橋大学の図書館で過ごした。博論もやはり途中で筆が止まることはあった。そういう時は「今日は2行だけ書いて寝る」と自分に言い聞かせてWordファイルと向き合った。本当に参考文献を1つ追加して終わることもあったし、予想外に2ページくらい書けてしまうこともあった。


お世話になったキャンパス

自分がゼロから編み出した(と思っていた)、全体の核となるアイデアが、実は経済学の分野で既に指摘されていることを発見したときは血の気が引いた。先生に相談して、一連の研究をきちんと引用する形にした。が、知らずに博論執筆を終えて、第三者に指摘されたらと思うと怖い。


9月

200ページを超える原稿が出来て、主査と副査の先生に送り、アドバイスを頂く。博論以外の全ての条件を満たしたので、博士課程を単位取得退学した(9月21日)。研究科委員会で学位審査委員会立ち上げが決定される(12月4日)。

2020年

2月

学位審査委員会が立ち上がると博士課程は最終章である。ただ最終章も一筋縄ではいかなかった。公聴会(2月6日)では博論を発表したが、先生方から大きめの問題を指摘される。それを受けて2月は個別に先生方にアポをとって、どう修正したらよい博論になるかのアドバイスをもらう。地道に直す。


とにかく印刷して、赤入れして、直しての繰り返し。


7月

1つ直すと、また色々な問題が生じてくる、それを埋めてという作業を繰り返して、7月頭に最終試験を実施した。これは主査と副査と自分だけの口頭試問である。コロナウイルス感染症の影響で2名の先生が遠隔で参加された。最終試験でも、いくつかの修正要求があった。最終試験の翌週に、必死に誤字脱字の最終確認をし、博論を印刷製本し、SFCに郵送した。


最終試験はマスクしてプレゼンしたら、酸欠状態に。




大学図書館に納めた博論がこれ。

私はもちろん参加していないが、研究科委員会が7月31日に開催されて、投票の結果学位の授与がきまったという連絡をT先生からいただく。これで6年3ヶ月に及ぶ長い長い道のりがやっと終わったわけである。研究科委員会の審査結果は、その日のうちに大学の事務室からも、連絡がある。メールには「学位授与日は7月31日です。」と明記されているので、この日から晴れて博士を名乗って差し支えないはず。

9月18日に大学院の学位授与式があった。コロナのせいで、オンラインで式の動画が公開される。学位記受領代表に選ばれたので、式中に名前が読み上げられた。式の10日前に義塾総務部から封書で連絡がくる。

10月中旬に大学のレポジトリで博論が一般公開された。サイバーセキュリティに興味有る方は読んで欲しい。そして誤字脱字があったらそっと教えて欲しい。

博士をとって何か変わったことはあるかを聞かれることがある。これだけの体力と時間とお金をつぎ込んだのだから、何かあるに違いないと思われているのかもしれない。今の所、変化は何も無い。驚くほど変わらない。これだけ本を読んだのだから、霧が晴れるようにとは言わないが、少しは世界がクリアに見渡せるようになってもバチは当たらないとおもう。だが現実は甘くない。テレビで活躍するような論客のように森羅万象を「それは要するにこういうことなんですよ!」と単純に解説することはできそうにない。社会はかつてより複雑で怪奇なものに感じられる。
ただ家族は喜んでくれた。80過ぎの祖母が、博論を毎日少しづつ読んでくれているそうだ。それは嬉しいし、良い孝行をしたと思う。


社会人院生の実態


勤務先の理解

社会人が博士課程に進む上で、勤務先の理解は重要である。学費を負担してくれる企業であれば言うことはない。大学院にも奨学金制度は様々あるが、年齢制限や社会人として給与所得がある人が給付対象から外れるものもあるからである。

私の場合は、勤務先は協力的であった。仕事のしわ寄せがいく同僚も快く送り出してくれた。それは研究テーマと業務の内容が近しいということが一番大きな要因だと思う。


通学

政策・メディア研究科の博士課程に授業はない。主査の先生のゼミに出るだけである。私が所属した研究室ではゼミは1-2ヶ月に1回の頻度で都内で開かれた。希望する院生が研究発表をして、先生と他の院生からのフィードバックを受ける。

時間的・地理的拘束はほとんどない。とにかく査読論文を書いて、研究業績を積み上げることだけが求められる。したがって政策・メディア研究科でも藤沢のキャンパスに行くのは年4回程度、大学院セミナーや窓口に出向く必要のある事務手続きのみであった。


費用

私は言ってみれば2.5年留年したので学費が人より高額になった。普通は休学するのではないか。私もそうしたかったが、外国語などの要件を満たしてしまうと休学できないというルールに阻まれた。

内容費用備考
学費¥5,200,000入学金なども含む。内訳は初年度116万、2-4年目98万、5年目73万、6年目半期 37万
TOEFL受験料¥25,000
大学院受験料¥35,630
学会の会費。3学会6年の合計¥80,0003学会6年の合計でこのくらい。
名刺¥7,000
海外学会出張¥230,000ホテル 38,749円、会議参加費 14000円、航空券 159,000円、ポスター印刷費 9,000円、空港タクシーなど 10,000円
国内学会出張¥26,000京都日帰り
研究に使用するソフトウェア¥54,000MendeleyとDropboxのサブスクリプション

液晶モニター
¥30,000博論執筆用
¥5,687,630


上の表に含まれていないものとしては、大学までの交通費、キャンパス最寄りのホテル宿泊代、切手代、印刷費、紙代、プリンターのインク代などがある。SFCは自宅からアクセスが悪く、公聴会の際は前泊した。先生との打ち合わせの直前になって博論の印刷をしなければいけなくなりコンビニで印刷する(5000円)とか、大学図書館に保管してもらうようにハードカバー製本する(15000円)とか、印刷費はかなり馬鹿にならない。

文系の研究者として書籍購入の費用は最も大きい。大学院にプログラム費という制度があり、1年に約10万程度の研究にかかる費用を申請すると大学が払ってくれる。2-4年目はこれを書籍購入の費用にあてていた。

海外学会発表は、様々な助成プログラムがあるので申請すれば大学に負担してもらえたと思う。ただし都内で働く社会人が、助成プログラムの申請のために会社を休んで、先生の印鑑をもらって、藤沢の窓口に行くとなった場合、どれだけの時間が失われるかを考えると、利用を躊躇してしまう。

総額は当初見積もりの2倍の600万円くらいだろうか。私の場合、勤務先からの補助はないので、これは純粋に自分の未来への投資である。もともと、海外の大学に修士を取りに行こうと思って貯めていたお金を使った。

時間

お金もそうだが、多くの社会人にとってより厳しいのは時間の確保だろう。「研究は短い時間でも毎日少しづつすることが重要」と、主査からは繰り返しアドバイスを受けていた。忙しい時期は通勤時間に読書する気力も無く、現実には、週末2日のうち1日にまとめて研究するというのが基本的なリズムだった。

読書のような細切れの時間でもできる作業と、執筆のような数時間邪魔されない環境で集中を要するものがある。後者は深夜家族が寝静まった3時くらいが一番捗る時間帯だった。

時間を作るため、いくつか削らざるをえなかったものがある。まず、大学院に入ってから夜に同僚や同業者と飲みに行く回数が激減した。そのような機会が好きで楽しんでいただけに最初のうちはストレスが溜まった。

ブログやTwitterもなにげに時間を取る。それだけではなく、ブログを書くと自分の中にある「書きたいという欲求」「社会に物申したい気持ち」がある程度満たされてしまう。成果として論文を考えている期間は、ブログやSNSからも距離を置いた。

なお、時間確保という点で一番大きな変化があったのは子供が生まれた時期である。子供は無限に時間がかかる。子育てと博士課程を両立するお母さんがいるらしいが、それは常人にできることではない。心のそこから尊敬する。

苦労したこと


先行研究を批判的に読む

研究の出発点として、先行研究を単に読むだけでなく、批判的に読んでいく必要がある。先行研究の課題を指摘できなければならないのである。長い社会人経験で、私はそれとは逆の能力を培ってきた。たとえば取引先とのやりとりで、自分にとって受け入れ難いことがあったとしても、無意識に共通の認識を探し、違いをすり合わせようとしていた。批判しないように意識的に努めてきた。染み付いた「違いに目をつぶり、共通点を探す癖」を自覚し、批判的に読み、批判的に聞くことができるようになるまで時間を要した。クリティカル・リーディング入門という本が参考になった。また、ゼミや大学院セミナーで他の人が質問しているのを聞いて徐々に身についてきた。


分析の枠組みという言葉、論文とレポートの違い

論文の下書きを先生に見せた際に、「分析の枠組みがない」「事実を積み重ねるだけではレポートであって、論文ではない」などという指摘を受けた。大学院で他の社会人院生が、「控えめに言って研究とは言えない」とバッサリ切られているのも目にしたので、レポートと論文の違いという基本が理解できていない人は潜在的に多いはずである。今は理解して、自分の各論文では明確に分析の枠組みを書いている。ただ人にうまく解説できないので、私は真に理解できていないのだと思う。

この点を克服するために、論文の書き方を指南する本を何冊か読んだ。どれもよかったが、結局一橋大学田中拓道先生の解説北海道大学鈴木一人先生の解説を繰り返し読んだのが一番よかった気がする。Webで無料なのでぜひ一読いただきたい。また、Kathryn L. Allen編 スタディスキルズ―卒研・卒論から博士論文まで、研究生活サバイバルガイドも役に立った。論文の書き方だけでなく、情報収集の手法、口頭発表の仕方、悩みがちな人との接し方、コンパクトに一冊に解説されている。


大学院特有の時間の流れ、持久力の大事さ

研究テーマを思いつき、大学院でセミナーをし、博論を書き、公聴会をし、最終試験をする。短くても2年程度は同じテーマを考え続けることになるのではないか。そのあたりの「時の流れ」が年単位、期単位で決算する企業活動とは大きく異なる。大学院のほうが腰を据えて1つのテーマを追い易い。僕の場合も、サイバー空間のトリレンマという自身の分析の枠組みを1年くらい、ずっと頭の片隅に置いて弄り続けた。何かに興味を持つだけでなく、興味を失わない知的な持久力が求められている。

考えすぎて分からなくなるときは、紙に絵を書いて整理する



ささやかなアドバイス


指導教員はめぐり合わせもある

博士課程は、主査と呼ばれる指導教員との二人三脚に近い。「どんな先生に師事するかが重要」ということは様々な書籍に繰り返し述べられている。しかしながら、学生の研究指導を引き受けるかどうかの決定権は基本的に教員の側にある。学生が指導教員を選べるという状況は珍しい。万一、学生側が選べる状況だったと仮定して、どういう先生を選ぶべきだろうか。研究指導に熱心か、そうでないかを外側から推し量る方法はあるだろうか。

一般論として、定期的に博士号を取る学生が出ているのは文句なしによいサインだと思う。定期的の条件が3年に1人なのか、1年に5人なのかは分野にも、大学にもよりそうである。

もう1つ、大学教授の中には自分のWebサイトなどで、博士課程の指導の方針や学生に求める点を明確に示している人がいる(例1例2例3)。このように先生側が学生側に求めることを明確に提示しているのは、求められる条件が厳しかったとしても、よいサインだと思う。その先生の頭の中で学生指導のあり方が整理されていることの証拠である。そして学生とのギャップを埋めようと文章を書いて語りかける姿勢から、指導に熱心である確率が高いといえる。

繰り返すが、そういう先生が指導を引き受けてくれるかは別の問題である。ここで、運とか縁とかめぐり合わせと呼ばれるものが必要になってくる。博士課程の入り口の最大の関門である。


英語は根性で頑張れ

論文の査読、博論の審査、基準が不明確な博士課程の中で、外国語の要件だけははっきりしていた。TOEFL79-80点以上とれる程度に英語ができないと、博士はとれない。ところが博士課程には英語力の底上げができるような授業も制度もない。従って英語力が一定の基準に達しない場合、自力で勉強することが求められる。


研究不正は駄目

研究不正は論外である。論外だが、現実に一定の割合で起こっている。私の大学院在学中にも、剽窃、捏造などの研究不正があり、学位が取り消しになった事例がある。気をつけたい。

オフラインで情報収集を

もし博士号取得を真剣に考えている場合、近くにいる経験者に直接聞いたほうが良い。博士課程の本当の楽しさも、辛さもインターネット上にはなかなか書きにくいものである。かく言う、私もここには書けないようなアドバイスがいくつかあって、それはあとに続く研究室の後輩だけに遺言として残した。

学位を取った人の経験は生存バイアスがかかってるかもしれないので、修士をとったが博士課程に進まなかった人、単位取得満期退学をしたが博士号取得に至らなかった人の話など、両側から意見を聞けるとなお良い。


最後にお願いを1つだけ。経験して心の底から思うのだが、博士課程の難しさの多くは、情報不足が原因である。学問を極めようとか、よい論文を書こうという気持ちはもちろん大切だが、それと同じくらい大学院の窓口に提出するあの書類の締切日と書き方みたいな些細な情報が重要だったりする。だからこそ、博士課程経験者の方は、自分の経験を後の世の人に伝えてあげてほしい。もちろん書ける範囲で構わない。匿名でかけるダイアリーなどやり方はいろいろある。



以上。