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Jun 7, 2016

5月の光景


僕が普段使っている腕時計は、使っていないと2日位で時を刻む事を放棄する。
今月は海外に出張したが、腕時計は家に置いていった。
2週間の出張から戻って、きっちり2週間分遅れた時計の針をもとに戻すには竜頭を根気よく回さないといけない。
竜頭を回しつつ、家族に自分が不在であったときの出来事を聞く。
大した事件はなくとも、色々とつもる話はあるものである。時計の針がもとに戻っても、話は尽きなかった。

アナログな腕時計の良さを再確認した。


5月3日 月1の電話会議で検討しきれなかった議題を話すための深夜の電話会議。課題はあるが前進している手応えがあるので嬉しい。ゴールデンウィークは電話会議と、決断を迫られらるメールが多くてなかなか気が抜けなかった。 
5月4日 午後集中して研究。
5月5日 ステーキ系の肉が食べたいと妻が言いだし、ファミレスで外食。久しぶりだがうまかった。
5月6日 久しぶりに気の置けない友人と二人だけで飲みに行く。地タコ浜蒸しうまい。リフレッシュ。三田にはまだまだいい店ありそう。
5月8日 ホームセンターに苗や種を買いに行く。ついでに肥料。夜寝ようと思ったところにY先生が病院に担ぎ込まれたという連絡。あわただしくなる。
5月9日 昼過ぎにY先生永眠との連絡。しばしボーっとする。深夜まで色々とメール処理。この日から数日ありえない量のメールを裁く。
5月11日 朝、家族のパスポート発行の手続きをするため役所へ。午後奈良へ。夕方にお通夜。奈良は雨だった。ほぼ一番乗りであった。人気のない斎場で顔を見てお礼を言えたのはなにより。奈良近郊のホテル泊。
この日の夜自分が企画していた集いがあったがあえなく不参加。
5月12日 奈良から出社。この日の奈良は雲一つない快晴。その青い空の下にはもうY先生がどこにもいないと思うと急に泣けてくる。午後会社で仕事。
5月13日 韓国で主催する国際会議には各国から参加者が予定されているが、中国とアフリカからの参加者に対して韓国政府がなかなかビザを発行してくれない。韓国の関係者に色々とお願いする。お願いぐらいしかできないねぇ。
5月14日 大学院セミナーがあるが欠席。家で留守番をする。夜たまたまテレビで「サイバー戦争の世紀」ってのをやってた。
5月17日 朝と夜に電話会議。
5月18日 今季一番大きな仕事の打ち合わせ。あきらかに細部を詰め切れてない。でも発車するしかな
い。見切り発車オーライ。なんとかなるでしょ。
5月19日 霞が関の普段つきあいのない人たちにサイバーセキュリティについて説明する。
5月21日 朝からお出かけ。カフェで朝食の後、新緑の玉川上水を散歩 
5月23日 中国の成都へ。パンダの故郷だそうです。空港からホテルまでで一悶着。違うホテルに連れてかれる。アフリカと思えば容易いものである。
5月24日 中国の国際会議に出席。短いプレゼンテーションをする。休み時間にメールでちょっとこじれていた件の当人と話すことができた。直接話せば向こうの言い分ももっともで、前向きな議論ができた。向き合って話すって大事ね。
5月25日 1日聞き仕事。昼間、割と神経を使う仕事。
夜、知人の中国人が成都名物の火鍋につれていってくれた。鍋には肉だけでなく、麺や餃子、わかめ、イカ、かまぼこまで入れる。辛いけど美味しい。瓶から直接のむビールも趣があっていい。大変気に入った。
5月26日 朝一で講演、今度は長めの講演。僕らが進めているプロジェクトに協力して欲しいという呼びかけ。中国語堪能な日本の若者に全面協力してもらって講演の最初は中国語で自己紹介、果敢につかみの笑いをとりにいく。「うける」というよりはみんなたどたどしい日本語をニヤニヤして聞いてくれていた。午後タイへ移動。タイ暑い。
5月27日 タイでお仕事。だんだんバンコクの鉄道システムになれてきた。アソークの繁華街にいい感じのバーを見つけた。
5月29日 夜空港で同僚と合流、アフリカのボツワナに向けて出発。
5月30日 15時頃ボツワナの首都ハボローネに到着。治安はとてもよい。17時ごろホテル会議室で各国から集った同僚と合流する。直前にいろいろなトラブルがあったようで、本来2人で回すはずの教室に講師が1人しかいない。さっそくお手伝いに回る。時差調整には仕事するのが一番か?ホテルのご飯はかなり美味しい。 
 
5月31日 予定では聞き仕事の日だったのだが、やはり想定外のトラブルばかりで講師の一人として自分で言うのもなんだが活躍する。初アフリカの同僚はおもったよりも環境の変化に面食らっていないようで頼もしい。自宅に絵葉書を送る。届くのかな?


May 29, 2016

山口先生へ

山口先生へ


山口先生とは色々な仕事を一緒にさせてもらいました。私が勤務するJPCERTの国際担当理事として折にふれて色々なアドバイスをいただき、フィッシング対策協議会の会長として指導いただき、また国際的なセキュリティ対策組織FIRSTの理事として活躍される様子を近くで見ることができました。

ただなんといっても印象深いのはアフリカにCSIRT(コンピューターセキュリティ技術対策組織、CERT)をつくるという仕事を一緒にしたことです。2010年からの4年間2人で色んな所に仕事に行きました。今数えたら10カ国、67日、17万キロ。地球を約4周分も飛んだことになります。先生がキャリアの最後の時期に情熱を注いでいたものについてご家族や親しい友人の皆さんにも伝える意味があるのかと思い、誰もが読める場所(ブログ)にこれを残したいと思います。


山口先生は2010年から、毎年2回づつアフリカ各地に出向かれ、各国にCSIRTを作ることを目的に、現地の技術者をあつめて5日間程度の情報セキュリティに関する研修をされました。2010年春のルワンダを皮切りに、南アフリカ・ケニア・タンザニア・カメルーン・ガンビア・スーダンで研修を行いました。なぜこのようなプロジェクトが始まったのかについては後段に譲りたいと思います。


研修にはアフリカ各国から民間企業の技術者、官僚、教育機関などが参加しました。 そもそも当時のアフリカのインターネットコミュニティにおいて主要な関心といったらIPv6や特定のベンダーの機器の使いこなし方でした。要するにセキュリティに対する関心は今のアフリカからは想像できないほど低く、CSIRTをつくろうという意識はありませんでした。先生のアフリカでの仕事はそういう厳しい状況からスタートしました。


アフリカに飛び込んだ直後の山口先生を語る上でもう一つ。みなさん御存知の通り山口先生は情報セキュリティの世界における重鎮であり、日本にいれば下におかれることのない存在でした。でもアフリカでは勝手が違いました。アフリカでJPCERTやNAISTのことを知る人はいません。慣れない場所で我々はよそ者として仕事をはじめました。 「日本から来た奴らが、セキュリティの研修をしている。CSIRTとかいうのが大事だってよ」その程度にしか認知されていませんでした。

アジアや欧米で仕事をする場合、そこにはやはり信頼の貯金がすくなからずあるものです。アフリカでの最初の時期はこの貯金のなさに苦しめられました。会議主催者にプリンターを使わせてもらうのを断られて、泣く泣くヨハネスブルグの街で研修教材を印刷してくれる場所を探しました。研修中にネットワークが落ちても我々の部屋は対応が後回しなんてこともありました。


肩書や経歴があまり意味をもたないアフリカで「野生の山口英」はまたたく間に周囲の人間を魅了し、巻き込んでいきました。私には魔法のように見えました。いくつかの理由があったとおもいます。


先生は類まれなストーリーテラーでした。

技術者にはセキュリティ技術の面白さを伝え、アフリカ各国の官僚にはセキュリティ対策をすすめることの経済的なメリットを伝えました。先生がその豊富な経験を壇上で話しだすたびに、会議室の中の雰囲気がすこしづつ熱をおびていったのを懐かしく思い出します。先生は英語は堪能でしたが、多くの研修生は留学経験があったり、他の講師は英語圏から来ていたりする環境で言葉は強い武器にはなりませんでした。内容が面白いから、視点がユニークだから、彼らは先生の話に耳を傾け続けたのだと思います。

そして先生が勧めるのは多くの場合、理想と目の前の現実を天秤にかけて、ぎりぎり手が届きそうな解決策でした。先生はエンジニアリングの本質をアフリカでも繰り返されました。


先生はいつでもどこでも精力的に働かれました。

研修中は初歩的な質問にも懇切丁寧にこたえ、昼休みもご飯を食べながら指導に当たられ、夜はアフリカの指導者達と情報交換をしました。アフリカ人技術者コミュニティの中で、ちょっと有名になるくらい飲み込みのわるい技術者も、あきらめずに指導されました。そういう姿を見て、「他の国から来る偉そうな講師と今度日本から来た奴らは違うぞ」という印象がゆっくりと広がっていきました。

日本にいるときも、アフリカの技術者からのSkypeやメールに丁寧に返信していました。逆にアフリカにいるときには日本から新聞社からのコメント取りの電話があったり、要人からの相談があったり。その縦横無尽かつ年中無休の仕事ぶりには驚きました。


最大の武器はやはり笑顔だったのではないかとおもいます。

先生はアフリカの多くの人に愛されました。研修は我々日本人2人と現地の数名のボランティアの技術者のチーム、総勢5名程度で分担しておこなわれました。初期の頃、現地のチームの仕事ぶりには不安な所が多く、私と現地技術者の間では意見がぶつかることがありました。先生はそれを横目でみていて、たいてい日程の真ん中あたりでみんなを食事に連れて行ってくれました。先生のレストラン選びは妥協が一切なく、したがって連れて行ってもらうのはいつも街一番のレストランでした。先生を囲んでみんなでワイワイおしゃべりをしながらお酒を飲んで、その笑顔をみていると、なんとなく昼間の出来事を忘れて、翌日からも頑張れる気がしてきたものです。


さて先生がなぜアフリカを支援するプロジェクトを始めたのか、そしてその成果についてもお話しておきたいとおもいます。


プロジェクトが始まったのは2010年のことでした。大阪大学の先輩でもあるキルナム・チョン先生が「世界のまだインターネットに繋がっていない地域にインターネットコネクティビティを提供する」という大きなビジョンを掲げられ、そのビジョンの実現にはセキュリティが不可欠だということでJPCERT,、APCERT、そして現在の内閣サイバーセキュリティセンターを立ち上げた実績を持つ先生にお声がかかりました。キルナム先生は「アフリカにはだいたい50カ国の国がある。各国に2名づつCSIRTに必要な基本的知識と技術をもったトレーナー(講師)がいれば、あとは勝手にひろがっていくだろう。」とまずは100人のトレーナー育成という方針をたてました。それに従い先生がシラバスのようなものを作成され、その講義の一部を私がお手伝いしました。先生は同時に日本政府の偉い人にもかけあってお金を工面してもらう交渉もされました。


実際に仕事を初めて見ると、 100人のトレーナーという当初の目標は非現実的であることが発覚しました。アフリカは広大です。我々が実施する研修に人を送れない国もたくさんありました。そこで先生はAfricaCERTというアフリカ人によるアフリカのためのセキュリティ対策組織を設立し、その組織がアフリカ各地にさらにノウハウを伝えていくという、間接的なアプローチをとることにしました。このAfricaCERTという組織は先生が様々なノウハウを惜しみなく伝え、発破をかけ、2012年くらいから非公式に発足しました。その後アフリカ各地から加盟組織を増やし、各地で研修を行っています。

2015年9月にはガーナで最初の総会を開かれ組織として正式に発足しました。私はこれに参加したのですが、その会の中でAfricaCERTの創設に大きな貢献をした人として先生が紹介されていました。

先生が蒔いた種は、アフリカの技術者・官僚が大切に手入れをつづけたおかげで、今スクスクと成長を続けているところです。


2010年にこのプロジェクトを始める時に、私自身なぜアフリカを支援するのか、その意義がよくわかっていませんでした。セキュリティ対策を世界中で進めることは必要ですが、なにもアフリカでなくとも、アジア、南太平洋、中東などにもまだまだ困っている人がたくさんいたからです。

その価値に気付かされたのは2014年くらいになってからです。アフリカ発のサイバー攻撃がちらほら見えるようになってきました。それに呼応するように欧米やアジアの先進国からアフリカについて教えてほしいと問い合わせが来るようになってきたのです。「アフリカのセキュリティ対策について知りたかったら日本のJPCERTという組織に聞いてみるといい。色々と知ってる。」という評判ができつつありました。国際的な活動をする上で、自分たちしか知らない情報があるのはとても有利なことです。その他にも色々なよいことがありましたが、それはまた別の機会に譲りたいとおもいます。


山口先生がどの程度、この結果をイメージして「アフリカいくぞ」と決断されたのかはわかりません。当初は新しい場所に行ってみたいという好奇心にかられた単なる思いつきにも聞こえました。一方で山口先生のように博識で様々な事情に通じていると、5年後にアフリカへの関心が高まることをすべて見通していたのかもしれません。今はやはり後者だったのだろうと想像しています。


「アフリカの茶色い土を見ると、生きてるって実感する」先生はそう仰っていました。たしかに色々な危険や困難のおかげで、日々生きていることの素晴らしさを感じました。細かい困難を綴ればきりがありません。苦労自慢はカッコ悪いと先生に言われそうなので、ここでは割愛します。


どんな困難な状況でも山口先生は大抵のことを笑い飛ばしてまた黙々と仕事を続けていました。

そういう厳しくも楽しかった冒険がもうできないのは悲しいですが、共に挑んだ日々を幸せに思います。


ありがとうございました。


小宮山より 


2011年秋 カメルーンの首都ヤウンデにて
 

May 1, 2016

4月の光景



4月2日 お食い初め。朝からスーパーで鯛を取り寄せてもらって家で焼く。見えないところで準備している妻のおかげで様(さま)になった。その後近所に桜を見に。
4月3日 伯母の一周忌法要 。
親戚の女の子の持ってたおもちゃ。最近のおもちゃハイテク
4月6日 今年から所属することになった研究所の新年度会合。研究は自分の頭のなかで煮詰めるものなので、箱は関係ないのだけれど。心機一転がんばりたい。
花よりみかんがきになる
4月7日 藤沢へ。大学院の新年度ということで色々な学事手続き
4月8日 品川でエストニア人の研究者(最近の著作)を囲んだ、プライベートな意見交換会。自分にはお馴染みの分野だが、会場の多くは抽象度の高さに持て余し気味。そんな中で素早く本質を捉えている人がいて、素晴らしいなと思った。

4月11日 朝7時の電話会議から夜12時の電話会議まで。昼寝が必要。僕の脳みそは寝不足だとうごきません。
4月12日 ハーバード大ケネディスクール(通称ケネディスクール)の知人から論文へのコメント出しの依頼。兄弟子K氏の得意分野だったので、自分で読むのもそこそこにK氏にレビュー依頼。
ケネディスクールは色々と特殊な学校である。彼らが日本への修学旅行にきた際に飲みに行ったのだが「昨日は安倍総理を表敬した」と言われ、驚いた。卒業生が要職に上り詰めることがわかっているから、日本政府の対応も違うのだろう。
彼が書いている修士論文もホワイトハウス内のとても偉い人がクライアントであり、彼らを前にした報告会がおこなわれるとのこと。修論なのに政策決定者への直接的なインパクトを持ちうる。そんな大学院、僕は聞いたことがない。
10歳下にこういう論文をかかれてしまうと、自分は「現場の経験」をもっと打ち出さないと、価値を生み出せないということを痛感。

4月14日 IGCJの会合へ。自分が意見を求められているセキュリティに関する文書の議論が終わったところで、中座して電話会議をする。夜の電話会議のために帰宅したものの、相手が急用でキャンセル。
4月15日 夜、珍しく人材紹介業の人と電話会議。この10年、情報セキュリティ/サイバーセキュリティの分野の人手不足が常態化している。求人が安定してあるのはよいことである。
4月17日 論文の翻訳のお手伝い。辞書と原著を並べて訳文を確認していく。2時間だけのつもりだったのが結構時間かかった。内容は非常に面白い。
4月18日 免許更新のために府中運転免許試験場へ。駐車場が混んでて路肩で30分待ち。その後大学へ。郵便局でキャッシュカードの再発行など。
4月21日 秋葉原でとある国際団体の日本の加盟チームを集めた会合に参加。古参の加盟チームであっても担当者異動などで顔ぶれが変わっている。団体自体の活動実績や今後の大きな動きについて説明する。その後赤坂で別件の打ち合わせ兼ディナー。
4月22日 久しぶりに浅草で電気ブランを飲む。 
4月23日 翌週に控えた大きな会合の準備でバタバタ 
4月24日 義母の誕生日のお祝い
 
4月25日 高田の馬場へベトナム料理を食べにいく。その後ビリヤード。久しぶり。 
4月27-28日 帰省。娘は人生初の上田の家。娘が生まれる一ヶ月前に逝った父方の祖母(と祖父)の墓前でお礼と報告をする。皆に娘の面倒を見てもらっている間に、夫婦で買い物をすませる。
道の駅の干し野菜
真田丸効果でどこもちょっとづつ混んでいる。関係ないけどこれ男の子にはたまらないだろうな。
4月29日 母方の祖母の米寿のお祝いで温泉旅館へ泊まりに。母方の親戚が集まったので、娘のお披露目をする。祖母は人前に出ることを好まない性格だが、今回は思いを句にしたためていた

大樹にと
名づけし父の
思いをば
いまだ小木の
吾れ米寿なり
3人の子育て、姑の介護を経て、今は93になりままならない夫の面倒をみている88歳の祖母。頑丈な根と靭やかな強さをもつ女性であり、決して小さな木ではないと僕はおもった。これからも元気で長生きして欲しい。

4月30日 実家から東京へ。行きのパーキングエリアでゲットした渋滞予測の冊子をもとに動いた。結果渋滞にハマることはなかった。
夜6月のイベントの集客の速報値がメールできていた。驚くほど数字が悪い。ふーーー。

Apr 2, 2016

3月の光景

3年以上待ちわびていたDVDがとうとう先週発売された。「水曜どうでしょう ユーコン川160キロ~地獄の6日間~」である。本来なら今すぐにでも買いたいのだが、論文を一つ仕上げたときの「自分へのご褒美♥」としてとっておいている。誇張無しに先行予約ができるローソンでギリギリまで悩みぬいて、このストイックな決断をした男の中の男とは私のことである。
このDVDについてネタバレは絶対に許さない!

そんなわけで3月の光景を振り返っていく。



3月1日-3日 マレーシアで会議。3日間の会議でプレゼンを2つ頼まれていた。同じ人に喋らせないといけないほど参加者がいない閑散とした会議なのかとおもっていたが、開けてみるとかなり鋭い議論が行われる場だった。こういうことがあるから仕事は面白い。
仕事の上でも、大学の研究の上でも良い収穫があった。満足。

3月5日 両親と弟が遊びに来てくれる。ついでにホームセンターにいって懸案だった家の外構いじりが一気にはかどった。ツルハシと鍬とショベルをクルマのトランクにいれて上京してきた父親に感謝である。 
 
3月6日 近所に住む妻の友人O夫妻とその娘(1歳3ヶ月)来訪。大きく感じる

3月7日 一週間ぶりに出社すると書類の山。年度末を感じる。

3月8日 G7関連の会議に招待され、講演をしてくる。聞き手は外交官だった。経験上、サイバーセキュリティの話をしたときの外交官のリアクションは「登場人物が多すぎる」というものがおおい。たしかに2+2(外務省+防衛省)で議論できる既存の安保対話とくらべてサイバーは責任と権限が曖昧で面倒である。生物化学兵器や核兵器などの彼らが経験がある分野とのアナロジーで説明していくってのが今の時点でのこの問題への僕のアプローチ
会議後六本木の取引先A社に顔を出す。いつも思いたって行く感じだが、なんだかんだで色々と勉強させてもらって帰ってくる。その後、同じくA社につとめる別分野の友人と立ち話。楽しそうでよかった。
夜銀座で懇親会。懇親会の後に出社。

3月9-10日 業務が深夜におよび昼夜逆転の2日間 
会社の会議室にダンボール敷いて2泊。うぇーい。 

3月11日 午前2時まで仕事し、一旦仮眠。朝4時から電話会議、9時と10時からそれぞれ別の電話会議。
昼間立ち寄った 霞が関で経済産業省の前を通る。原発反対を訴えるテントの周りに取材陣が多い。あれから5年が経つ。

夜、六本木で衆議院議員の私的勉強会に、一学生として講演しにいく。慣れない仕事。議員は非常に聡明な方で政治家というもののイメージがかわった。

3月12日 論文書き 
3月13日 午前11時の便でヒューストン経由プエルトリコのサン・ファンへ。
今回の出張は入国審査で揉めに揉めた。今年1月に米国の入国管理制度が改正されたのが原因である。これまで日本人ならVISA無しで(ただしESTAという申請を事前にするが)入国できる。しかし9.11以降にスーダン、リビヤ、イランなどを訪れた人間はVISA無し入国が不可能となっていたのである。
細かくかけば色々あるが、ヒューストン空港での入国管理で別室で取り調べを受け、3時間拘束された。乗り換えの飛行機にまにあうはずがなく、空港のラウンジの床に寝て、14時間後の次の便をまった。本来なら日曜15時に現地到着のはずが、月曜5時到着になってしまった。会議間に合うのか???

3月14日 どたばたを乗り越え、朝6時半、会議が行われるホテル着。チェックインして朝ごはん、シャワーを済ませて9時から会議。妙なハイテンションで眠くはならなかった。夜の同僚とのディナーはさすがに勘弁してもらう。ホテル内で高くて美味しくない和食をたべ就寝。 
 
プエルトリコの名産といえばラム。特にバカルディーは年代物も手頃である
3月15日 東京での仕事がくすぶっていて、それを横目で調整しながら、会議。夜ホテル内でサンドイッチ。うまい。日本のサブウェイみたいなチェーンのサンドイッチなんだけど、パンを焼いてくれるところがポイント高い。

3月16日 終日会議。昼休みの時間を利用して海で泳いでみる。午後の会議により集中できた。
理事会内で自分が任されているプロジェクトの進捗が芳しくない。担当者を任命して、その人物に一任していたのだが進んでいないようである。任命責任を英語でなんというのか定かではないが、穴埋めは自分の仕事である。多分人に仕事を任せる方法について僕は一から勉強したほうがよいのである。
夜、ホテルの外を歩いてみたくなり、20分ほど歩いて中華料理をたべにいく。高くて美味しくない。 Yelpを参考に結構吟味してこの結果なので、サン・ファンの食生活攻略は難易度高め。
仕事をする環境としては最高であり、最低である。
3月17日 終日会議。夜地元銀行のCSIRTの担当者と食事。食後、合言葉を言わないと入れない秘密のバーに連れて行ってもらう。
3月18日 サンファンからヒューストン経由で成田へ。帰りは非常にスムーズ。
2017年6月のカンファレンス会場の下見を兼ねた今回の出張。サン・ファンとプエルトリコをすっかり好きになった。きっと来年の会議も成功すると思う。しかしまずは自分の担当の今年6月の韓国ソウルである。 

3月19日 午後成田着 


3月20日 時差ボケのせいか午前は妙に元気、仕事をやっつける。午後電池切れ。ひたすら寝る。大学院から封書がきている。進級。来年度は3年生である。。。


3月21日 妻の友達とその息子(3歳)が遊びにくる。個人的に男の子は楽。
髪の毛を切る。初めて近所の1000円 カットに行ってみた。シャンプーしてくれないので帰ってすぐ自分で洗う必要があるが、早いし安いし多分また行くとおもう。


3月23日 変な夢をみて目を覚ました。「プラハ行きをご登場のSparky様ゲートにお急ぎください。当機間もなく登場を締め切ります。」 起きたら6時55分。7時から大事な電話会議だった。虫の知らせってこういうことか。。。


3月24日 朝電話会議を寝坊ですっ飛ばす。前日の件があって、自分の体内時計を過信した。
 昼にマレーシア人の取引先とランチへ。マレーシア人だが米企業のシンガポール法人に在籍し、期間限定で東京勤務。インターナショナルである。


3月26日 家族で外出。地元の人気洋菓子店が休業にはいるということで食べ納めのシュークリームを買いに。
庭園のなかに佇む洋菓子屋なのである
ついでに庭の踏み石や砂利を買い足す。四川料理のお昼ごはんの後に作業をする。これでひとまず外構は一段落。 

3月27日 妻が友人の結婚式へ。午後は娘とお留守番。仕事をしながら面倒見るつもりだったがそれどころじゃない。

3月31日 昼におもめの焼肉を食べたら、午後激しい頭痛。そこに因果関係があるかどうかはわからないのだけど。




Mar 6, 2016

2月の光景

多分そこにたいした理由なんてない。深読みしたり、分析したりするだけ時間の無駄だと僕は思う。
人間とは高級な懐石料理を食べ続けたら、いつかはジャンクフードを食べたくなるイキモノである。
味とか、体に良いとか、そういうのは一時おいておいて。

オバマは任期を通じて懐石料理だった。知的で、現実的で、笑顔はチャーミングで、どこの国の元首とならべても紳士だった。政策については当然ながら色々な評価がある。しかしオバマは一大統領候補であった時代から基本的な姿勢がほとんどぶれなかった。

対話と協調を重視する外交方針は世界に、そしてテロリストに対して「アメリカは弱腰」という印象を与え、それがウクライナ、南シナ海などでの反米陣営の増長を招いたという安全保障の専門家もいる。世界の平和を維持するためにアメリカはもっとチンピラに振る舞うべしということらしい。

そういう意味で共和党大統領候補最有力の座に踊りでたトランプはオバマと対極のジャンクフードである。


2/1 ソウルで6月に開催する大きな会議の下見。細かな問題は山程あるものの、準備は順調である 
2/4 取引先と飲みに。本当に久しぶりに外で飲んだ。家が遠くかんじる。いや実際に遠くなっているのだけれども。それ以上に

2/5 IGCJ(インターネットガバナンスに関する日本の関係者の会議)に参加する。セキュリティに関する考え方をまとめた文書作りに時間を割けていないので心苦しい。IANA機能管理の移管はいよいよ今年の9月末という明確な〆切を見据えて、議論がおこなわれる。マルチステークホルダー議論は結論を出しにくい。コミュニティの真価が問われる半年になる。

2/6 長女のお宮参りに。帰りがけに久しぶりの外食



2/9 三田で先生に論文の方向性確認してもらう

2/11 嬉しい週半ばでの休み。各種原稿の締め切りをやっつける

2/13 みんなですき焼きを囲む。楽しかった

2/16 朝7時から夜1時までいろんな会議が。電話会議を減らしたい。
故郷の地方自治体が来年度3億7千万の予算を組んで情報セキュリティ強化にあたるとのこと。成功してほしい。
 
 
2/19 同僚の送別会。ムードメーカーであり、仕事の上でも牽引役であった人が抜けるのは寂しい。ただ狭い業界きっとどっかで一緒になるんだろう。
日本の技術者が、待遇面で限界がある日本の大企業でなく外資を選ぶのは自然なことだし、もっと増えてしかるべきと思う。海外で開発された製品をなんとなく日本語のマニュアルを付け加えるだけでは売れない時代、外資企業の日本拠点にはこれまで以上の努力がもとめられている。

 

2/20 妻、久しぶりのお出かけ。娘と留守番。ぐずられるとやっぱり焦る。新しい掃除機がくる。古いのは一体何年物かもよくわからないほど古かった。コードレスは便利。

2/22 日帰りで奈良へ打ち合わせへ。体調がなんとなく悪く、行き帰りの新幹線はぐったり。



2/25 中国の研究者との共同ワークショップ今年で参加させてもらうのは3年目。中国・台湾・香港は知れば知れば面白い国だ。もっと知りたいと思うけど言葉の壁が高くそびえたつ。

2/26 思えば2月24日の昼ごはんを食べに 外に出た時、やたらと食欲がなかったところで不調に気づいて手を打つべきだったが、そのあたりから微熱が続く。25日夜に明らかな風邪の症状が出ていたが、26日は根性で仕事へ。26日夜に体が悲鳴をあげダウン。

2/27-28 自宅で安静にする。

2/29 クアラルンプールへ出張。サンフランシスコや松山市道後に出張している同業者が羨ましいが独自路線を行く。自分が知らないところ、誰も自分を知らないところに飛び込んでいくところに僕の価値があると信じる。
ホテル泊もおよそ3ヶ月ぶり。






釜玉うどんにカルピスバターと黒胡椒を加えた、和製カルボナーラ。

ある日の都心の駅






Feb 10, 2016

1月の光景


NHKの新・映像の世紀シリーズがおもしろかった。どこから探してきたと思うような貴重映像もすばらしいが、その選び方とストーリーの組み立て方がすごい。特に「第2集 グレートファミリー 新たな支配」はこだわりをもった個人が最初から最後までストーリーを組み立てたのだと、見ててそう感じた。
ケインズの言葉が紹介されていた。
「今我々がその中にいるグローバルでかつ個人主義的な資本主義は成功ではなかった。それは知的でなく美しくなく公正でもなく道徳的でもない。そして善をもたらさない。だが、それ以外に何があるのだろうかと思うとき、非常に困惑する」
ケインズがこんなこと言ってたというのは衝撃だった。気になって原典を探してみた。もっと口調は強いかもしれない。
The decadent international but individualistic capitalism, in the hands of which we found ourselves after the war, is not a success. It is not intelligent, it is not beautiful, it is not just, it is not virtuous--and it doesn't deliver the goods. In short, we dislike it, and we are beginning to despise it. But when we wonder what to put in its place, we are extremely perplexed.
-- John Maynard Keynes, "National Self-Sufficiency," The Yale Review, Vol. 22, no. 4 (June 1933), pp. 755-769.
 それから80年の月日が経ち、われわれは「非常に困惑」したままであるばかりではなく、その軋む音をより身近に聞き、崩れていくのを目の当たりにしている。「それ以外になにがあるのだろう」という問いは心にとどめておきたいなと思った。
  
1/1 忙しすぎて年末年始感が皆無である。だが空だけは青かった。本当に青かった。いい1年になるに違いない。

1/3 ふぐ鍋でお祝いをしてもらう。何度目かわからないがめでたいのだから良いのだ。 

1/4 社会復帰。会社遠い。頼もしかった同僚が産休にはいったのでなんかもの寂しい感はあるが、新しい顔が入ってなごませてくれる。     
1/8 三田で打ち合わせ。
1/9 妻と娘が里帰りから帰宅。やっと生活が少しづつ元にもどっていく気配を感じる

1/10 祖母の四十九日法要と納骨で帰省。
仕事で葬儀・告別式に参加できなかった分も手を合わせてきた。長い間お疲れ様でした。
納骨しようとお墓の石をどけるとそこには壺に入った祖父のお骨が。祖父は僕が3歳の時に亡くなった。祖母はそれから30余年分のつのる話を今頃祖父に聞かせているのではないか。

お寺には昔から地獄のミニチュアが置いてある。子供の頃は怖くて仕方なかった。今改めてみると、これを前に「お父さんお母さんの言うことをちゃんと聞かないとこうなっちゃうよ」と諭すのはちょっと卑怯な気がするな。

1/11 クルマ来る。自動車保険は結局ネットで見積もった安いやつ。 
1/13-14 三田で固めの会議に二日間拘束 
1/16 論文をみっちり書く。某国立大学の図書館は驚くほどにラップトップ使っている人が少ない。本と紙のノートに真剣な表情で向き合っている姿は「学生」という感じがして気持ちいい。今の大学だと研究とはつまりパソコンに向かうことという空気があるのとはちがうなー。
1/18 雪で朝から交通機関は麻痺。そんな中役所に書類を出したり、郵便局に口座開設にいったり。会社についた時には足元ずぶ濡れで気持ち悪い。 
1/19 我が家に待望の光回線が。PPPoEの設定を前日から無線LANルータにいれておいたので帰宅したらつながっててびっくり。新居に固定電話は不要だが、インターネットは必須というあたりにライフスタイルの変化を感じる。 
1/21 昼、海外から面白い研究をしている人が来日。日本のトップ研究者を2人お招きしていい情報交換ができた。会議が終わってから日本人だけ3人でお茶。ベイジアンネットワークを使ったWebアプリへの攻撃検知についてゆるい議論。サービスの立ち上げの苦しい時期を乗り越えて、技術が社会に貢献しているという自信をもってまた一回りデカくなられた気がする。
夜歓迎会、深夜電話会議。このパターンいやだ。
1/23 下の弟が遊びに来る 
1/25 本来ならどうあってもヨーロッパに出張しなければいけない週ではあったが、私生活のゴタゴタを理由に勘弁してもらう。かわりに夜の電話会議つづく。 
1/30 週末も予定みっちりだが時間を作って髪を切る。さっぱりすっきり。 

Jan 2, 2016

12月の光景

私生活が人生で最高の忙しさでした。

12月3日 コンゴ共和国で会議 
12月4日 コンゴから帰国の途に就く。しかし帰路がひどかった。飛行機の遅延、やっと滑走路まで移動したところで遅延に苛立った乗客の一人が降ろせとゴネだし、飛行機がターミナルに引き返す。当然エチオピアでの乗り継ぎ便にはのれず。
12月5日 エチオピアのアジス・アベバで乗継便待ちの一泊。細かいゴタゴタを挙げだせばきりがない。ただ時間つぶしのために半日アジス・アベバ観光の時間がとれたのはラッキーであった。
12月7日 堅めの会議@麻布十番
12月11日 大学院の先生と打ち合わせ。
12月13日 家の確認
12月14日 買い物をして回る。ニトリの店舗に初めていったが広くてよい。
12月15日 夜電話会議
12月17日 朝電話会議。おっきな契約。実印をたくさん押した
12月18日 午前大学で雑務、午後仕事
12月19日 やっぱり車はいるよねきっと
12月21日 クリスマスのお祝いで美味しい鉄板焼を楽しむ
12月23日 生まれる
12月26日 引っ越す。大物家具が入らないのでクレーンにお出まし願う。フライング洗濯機
12月28日 役所や警察署での手続きをして回る
12月29日 実家の両親と弟が上京 









Dec 6, 2015

11月の光景

11/1 時計をオーバーホールにだす。本体には何も問題ないが革ベルトが痛む。金属ベルトをかってもよいのかもしれない。ついでにリュックサックを買い直したり、ノートカバーと整髪料を買ったり。久々に散財
夜、妻が墓参から帰宅。おみやげにベルトをもらう。

11/5 香港から取引先来日。食事を持ちかけられるも時間があわず会えずじまい。
引越しの見積もり依頼する。

11/6 元同僚と神田で飲む。リュックサックがお揃い。 
11/8  義父を含め家族で食事    

11/9 仕事で両国へ。ランチにちゃんこ鍋をいただく。おっきな豆腐をネギ醤油が入った味の濃いタレでいただく。美味しい。が、何をもってちゃんこ鍋なのかは未だによく分からない。
オリンピックを控えることもあり、都内のホテルはどこも強気の価格らしい。

11/10 この前の週に沖縄で開かれた会議の関係で海外からのお客さんが突発的に増える。結果10日と11日で面会1件、ランチ1件、ディナー1件。

11/12
夏におこなった高校生向け講座のアンケート集計結果がとどく。質問がまったくなかったことが軽くトラウマになっていたあの件である。アンケートを読むと話した内容自体はきちんと伝わっていることがわかって一安心
夕方、恵比寿でアフリカ関連の説明。最近日本企業から立て続けに「アフリカの話が聞きたい」と依頼があった。
深夜の電話会議。

11/13実家へ。
母方の祖父母の家に顔をだす。いつ行ってもお菓子や果物をかなり強くすすめてくれる。もちろん嬉しいが断り方も工夫がいる。何はともあれ夫婦揃って元気そうでなによりである。

11/14,15
実家近くに入院している父方の祖母を見舞う。点滴だけで栄養を摂っている状態だが、様子は安定していて年明けまでは大丈夫だろうなという印象をうけた。耳元で呼びかけても反応はなかった。

その後義理の母、義理の姉とその旦那さんを実家にお迎えする。みんなで温泉へ。天気が悪かったのが残念だが、楽しかった。なにより妻の家族のみなさんに地元のことを知ってもらえてよかった。




両親から様々なおみやげを貰って夜遅くに帰宅。
帰りの電車は指定席がとれないどころか、自由席も通路まで人があふれる状態。身重な妻も立ったまま東京へ戻る。長野新幹線が北陸まで伸びた影響で電車が混んでいる気がする。

11/16
朝一で羽田から韓国へ。喫茶店でプレゼン資料作成。ホテルの自室で恩師と打ち合わせ。夕食を一緒にとる。
『IPv4もそうですけど、技術者は同じ過ちを繰り返しますね。利用が増えるのを少なく見積もってあとから拡張に迫られるというのが大変おおいです。』 
みんなSuguruの復活を信じている。
合間にホテルからほど近い景福宮に立ち寄る。ちょうど衛兵の入れ替わりの時間だったらしくよいものが見れた 


11/17
イベントで講演。参加者の少なさが気になるが、与えられた枠でしっかりアピール。
韓国料理好きとしては、ソウルでの食生活は恵まれているのだが、コーヒーだけはまだまだ改良の余地が多い気がする。
夕方レセプション。
夜電話会議。出張中の電話会議はまた格別な辛さがある気がする。議題がややこしく、結局深夜2時頃まで。 
ランチのお寿司(韓国風)が秀逸

11/18
イベント2日目でも講演。フライトのためイベントを早退して帰国。
帰りしな初めて金浦空港横のロッテデパートに立ち寄ったが、お土産物コーナーの品揃え豊富でとてもよい。おすすめ。


11/19
打ち合わせの多い日。朝から竹橋→六本木→竹橋→溜池山王で打ち合わせ。六本木では大学の先生にあって経費精算の書類に印鑑をいただく。いろいろと公私にわたる助言をいただく。先生もいろいろ大変だったんだなぁ。。。

11/20
夕方、同じチームの仲間が用意に奔走していたセミナーに顔を出す。参加者の顔ぶれがかなり変わっている気がした。会場からの質問も鋭いものが多い。同僚のプレゼンは堂々としていてよかった。そして質疑応答で答えに窮した同僚を別の同僚がフォロー。ナイスチームプレー。
夜電話会議。

11/21
大型家電量販店に新居につけるエアコンを下見にいく。新製品の時期で、特に昨年の商品が安くなるらしい。下見だけのつもりが結局3台買ってしまった。
ついでに服を選んで買ってもらう。今まで冬物が少なかったのでよかった。

11/22
大学図書館で論文コピー。
夜、昔よく行った居酒屋に行く。引っ越す前に一度来たいと思っていた。自家製ポテトチップスがいつもどおりおいしかった。またいつか。

11/23
前日に続き大学へ。
夜10時過ぎに母親から電話。祖母が亡くなったとのこと。つい9日前は元気だったので、驚く。できるだけ早く実家に帰ろうと決断。
その後また電話会議。葬式出張で2週間はいないものと思ってくれ宣言する。

11/24
朝早くに実家へ戻る。
前夜母や伯母、弟達が遅くまで頑張ったおかげで、祖母は自宅に安置されていた。すでに親戚がちらほら。
午後、伯母つまりは祖母の娘達やその家族が到着。賑やかになる。
夕方、喪主でもある父が出張先から緊急帰国。
通夜が28日、告別式が29日ということで日程が決まる。28日夜にコンゴに出発する必要があり、参加できないことになる。 
夜電話会議、出発を1日送らせてせめて通夜だけでもでれるようにできないか調整。

11/25
午前11時から枕経。ほぼ1日葬儀屋さんとのあれこれ。いわゆるおくりびとがやってきて祖母に最期のお化粧をほどこす。
自分の出張の日程変更はむずかしいようであるので、葬儀/告別式の出席をあきらめる。仕事で頑張ることが祖母に対する一番の供養と考えるようにした。
夜、下の弟とちょっといい酒を家で飲む。

11/26
喪中の連絡のはがきを印刷。親戚の子供に遊んでもらう。
親戚向けに当日の日程表を作って送る。
実家を発つ直前に最後に祖母と向き合う。今までずっとバタバタしていたので部屋に祖母と自分だけというのはこの日が初めて。火葬は3日後。たった3日後には祖母という「物体」がこの世からなくなるんだということを実感し、しみじみと悲しくなる。

新幹線で東京移動。2時間だけオフィスで仕事をする。午前中まで頭のなかには葬式のことしかなかったので、仕事の質の高低差がすごい。
明後日からのアフリカ出張の打ち合わせや、緊急の仕事を手早く片付けて帰宅。体力の限界を感じて、夜の電話会議は不参加。

11/27
朝から家の契約などのために、区役所・法務局などを回る。
夜の便で成田から香港、エチオピア経由でコンゴへ出発。 
機内で何冊か本がよめた。『世界史で学べ!地政学』は池上彰を彷彿とさるこなれた解説で最近読んだもののなかでは出色の一冊。『インターネット・ガバナンス 世界を決める見えざる戦い』 はちょっとむずかしかった。

11/28
コンゴ着。雨季の終わりとは聞いていたが暑い。
ホテルやレストランのスタッフの感じからコートジボアールを思い出す。
空港から直接会議に直行。予想よりもフランス語しか話せない参加者が多そう。 

11/29
コンゴでの仕事初日。コンゴ人は話好きである。アンゴラ人も。
夜はホテルの横のレストランで食事。原油採掘で汚染されまくった海をながめながらビール。
同じ頃行われている祖母の葬儀思いを巡らす。 

11/30
昼前、普段は超健康な同僚がダウン。コンゴの病院へ駆け込む。
今までアフリカに何度もいって体調を大きく崩さなかったのは、私や同行した当時の同僚たちが幸運であっただけであり、誰もが一寸先は闇ということを思い知らされる。
大変な一日だった。 
ポワントノワール駅。アフリカでも駅の周りは概して治安がよくない

しかし持つべきものは友である。ありがとう!

愛用のバッグとお別れ

最近覚えた油そば風そうめん。(めんつゆ、オイスターソース、ごま油を麺と和えるだけ。)