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Jun 22, 2015

5月の光景

おくれてやってきた5月の光景。

GWは実家で集中して論文書く。進捗は・・・うーむ。
  • 5/10 いわゆるスーパー温泉へ。フナッシーのパーカーの色目が鮮やか。
  • 5/12 フィリピンへ出張。ボラカイは遠い。というか交通がよめない。フィリピン航空はまったくあてにならない。
  • 5/18 来日した元同僚とごはん。
  • 5/22 奈良へ日帰り
  • 5/25 本来なら毎年アフリカに出張する予定だった週。 今年は開催地がチュニジアの首都チュニスであった。4月におこった悲しい事件の余波もあり、出張を早くから断念。代わりにビデオレターを作っておくる。
  • 5/26 同僚の歓送迎会


母校建替えにつき仮設校舎が建設中

たけのこの季節

すさまじいホスピタリティでした。


ボラカイの日暮れ

久しぶりの池袋、初めての居酒屋

May 2, 2015

4月の光景



4/4 身内の不幸。前から良くないのは知っていた。急遽親戚宅を訪れる。翌週の告別式に仕事で参加できないのは申し訳ない。

4/8 大学院で先生に指導してもらう。学生証には一応博士課程2年と書いてあるけど、進級の観念はない。昨年よりもっと頑張って成果を出していかないといけない。

大学院生棟がレイアウト変更で超おしゃれに。見頃の桜と相まって素晴らしい眺め。

帰宅後に誕生日を祝ってもらう。

4/9 新橋の居酒屋。お酒も料理もすばらしかったの一言。お値段も手頃。




4/13 オランダのデン・ハーグへ

こじんまりと上品なホテル

新旧交じり合うハーグ市内

4/18 フランクフルトから韓国への飛行機にのろうとゲートにチケットをかざしたら、ゲートがあかず小さな紙切れが吐き出されてきた。”New Seat - Business Class”。こんなドラマチックなアップグレードは人生初。ついてる。

ソウルでお仕事。


初めて本格的なプルコギをいただく
 
4/30
イチゴが底値でうれしいな。



Apr 2, 2015

3月の光景

アフリカ人の取引先から面白い話を聞いた。無私の精神を持つ素晴らしい政治家の話である。

アフリカ諸国は人工衛星を持っていない。それでも衛星を通じた通信は必要であり、諸国は毎年5億ドルの衛星使用料をヨーロッパの会社に支払っていた。これを先進国による後進国からの搾取と看破したあるアフリカの政治家がいる。

彼はアフリカ人によるアフリカ人のためのアフリカの人工衛星が必要だと訴えた。長期的な支出を抑えらるし、なによりも科学技術人材を育てるには自前でやるしかないと。
膨大な資金を調達するため彼はまず先進国の支援機関や世界銀行と交渉を重ねた。誰も面と向かってアフリカの人工衛星のアイデアを否定しないが、交渉はずるずると長引いた。衛星使用料が減ることを先進国が嫌ったのかもしれない。

そこで彼はアフリカ各国が自ら資金を拠出し衛星を打ち上げようとした。さしあたって4億ドルの大金が必要だった。衛星の必要性を認めつつも、資金を出すことを渋るアフリカの大国を前に、彼は自分の国がコストの大半をカバーすると言い切った。結果彼の国が3億ドル、南アフリカ共和国が9000万ドル、ナイジェリアが1000万ドルを拠出し、RASCOMという国際企業をたちあげ、新たな衛星を打ち上げることにした。本拠地はコートジボアールのアビジャンにおかれた。(アビジャンは個人的に苦い思い出残る土地である。)

RASCOMが試験的な打ち上げに成功し、いよいよこれからというところである政治家は政変により失脚し、「アフリカの人工衛星」の夢は頓挫した。
政治家の名前はムアンマル・アル=カッザーフィー。日本では残虐な独裁者カダフィ大佐として知られている男である。
カダフィはまたリビヤの若者が海外の大学などで学ぶ際の費用を政府が全額負担する仕組みをつくりあげた。若者達はその制度を利用し、留学し、そして皮肉なことにカダフィの独裁を批判するグループの中心人物となっていった。

全て人づての話である。細かいところは記憶違いもあるかもしれない。しかしいずれにせよ、カダフィの功績を評価する人が一定数いるということに私は驚いた。
カダフィに関して180度異なる見方があるように、この世には唯一の正義も純粋な悪人もいない。
世界から争いを減らすためには正義と悪という二項対立にとらわれない我慢強さ、そして「正義のため」という美名のもとに行われるあれこれを疑ってかかる謙虚さが必要だ。

チョー意識高い系である私は、人生の早い段階で、そのことをガンダムにおける連邦とジオンの対立から学び、そして今回の件で確信を強めたのである。

ガンダムもまた偉大である。

さて3月の写真を数枚。


2年ぶりのヤンゴン、ミャンマー。景気がよくて、街中建設ラッシュ

お昼休みに皇居で

川面を覆う桜の花びら。ドブ川にも春は等しく訪れる。

Mar 7, 2015

2月の光景

2月あたまはイギリスにいた。ネイティブの議論に食い込むのは難しい。
実はわたしは「NO」と言える日本という本に大いに感化された人間である。1989年に刊行された石原慎太郎と盛田昭夫によるこの本は、対欧米追従をやめNoと言える日本人になることを訴えている。

この本に影響され、勉強し、最近では相手が言っていることを理解できるようになった。Noと断言できるくらいのコミュニケーション能力は身につけた。


そして気づいた、僕らはもはや「Noといわない日本人」を目指していかないといけないんだと。理由はたくさんあるけどここでは2つだけ。


1、交渉の中でNoと言うのは非生産的
英語を母国語とする人たちは、驚くほどNoと言わない。振り返ってみれば、日本の会社の中でも会議で「いいえ、実現可能性はありません」「いいえ、XXという決まりがあるのでできません」「いや、賛成しません」とはあまり言わない。
交渉というのはお互いに妥協できるギリギリを探る作業であり、共通の価値観や共通の利益をどこかに見出す作業である。あいつの提案には賛成できないと思ってもNoと言うより、Yesといえる一部分を探し、その上でこちらに有利な提案をかぶせていかないといけない。

2、もはやNoと言える立場にない
GDPが世界2位の経済大国の時代、Japan as Number Oneの時代には外国が良きにつけ悪しきにつけ日本を特別扱いしてくれていた。残念ながら日本経済、ひいては国際社会における立ち位置というのは徐々に弱まりつつある。
大国であれば提案に対してNoと言えば、交渉相手が代案をもってくるのかもしれない。日本に対するそういう特別扱いは体感的に減っているし、これからもっと減るだろう

だから僕はNoと言わない日本人、しつこい交渉をする日本人になれたらよいと思う。
でもそれは結構難しいのだ。Noと言わないように相手の意見に反対するのは、発言の流れを読み、自分の妥協できる点を意識し、相手の真の狙いを知らずにはできない。

麻雀の世界では風牌(東南西北ってかいてあるやつ)は使い道が限定されていて、これを早めに捨てるのがセオリーだ。ところがこの世界の達人(雀鬼桜井氏)は弟子に一巡目に風牌をきることをやめさせている。当時意味が分からなかったが、セオリーにあえて逆らうことで、突き詰めて考えることを強いているのだろうと思う。
あれ、いつの間にか麻雀の話になってた。
ま、いっか。



服飾系の展示が充実。宝石の展示室はところせましと貴重な宝石がぎっしりならんでいて、逆に原宿の雑貨屋のアクセサリコーナーの様相だった。

よみますよみます。

今年もチョコケーキ。うまい

祖母がめでたく白寿。親戚一同でお祝い。
北陸新幹線たのしみですな。

Feb 15, 2015

1月の光景

学生の時、職業を選択するときのことを思い出した。ゼネラリストを目指すか?スペシャリストを目指すか?みたいな大雑把な問いについて友人などと話したことをだ。

良く言えばつぶしのきく、悪く言えば取り柄のない学生である我々の間ではゼネラリストの選択が人気であった。
僕はといえば、人事財務などに興味を持てなかったし、なんとなく一つの分野を極めたほうがカッコいいと思い、IT技術者として働くことを保証してくれる会社に就職した。

自分の職業選択が正しかったのかはわからない。60歳くらいにならないと答えはでない。間違っていたとしてもやり直すことは不可能だ。
それを踏まえた上で、これから人生の方針を決めようとする方にスペシャリストになることのメリットを一つ説明したい。
・・・と思ったがまた長くなりそうなので、この話はまた今度にしよう。

 今月気になった言葉。
誰からも非難されることもない場所で「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせることが倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもないことを明言しておきたい。
吉本隆明「『反核』異論」より

さてさて、写真はります。

南の島のクリスマスを想像してカードを書くが結局出せなかった。かなしいね。


17世紀からの建物がレストランに

夜のラス・パルマスの町並み。ゴツゴツした石畳は馬にとってはあるきやすいそう


バラみたいだ

本はたいていこうやって折りまくって読んで、メモして、捨てます

中学の時に参加したアメリカのボーイスカウトの年次大会(National Jamboree)の資料が出てきて、しばらく読みふける

Jan 18, 2015

12月の光景

長年使っているドメイン名の更新を「うっかり失効」してしまい、それを元に戻すのに手間取っていました。そんなわけで今月もあと一週間を残すところなのに先月のまとめです。

時間無いから、手抜き。







Dec 20, 2014

初めての海外一人旅にいったら、さみしかったという記憶

ふと、学生時代のことを思い出した。フランスのドーヴィルという静かな街に海を見にいった生まれて初めての海外一人旅のことを。思い出が風化する前につづっておきたいだけなので、オチもなにもない。しかも字数が10000字を超えてる。

奇跡の卒業
学生時代の僕はひかえめにいってもかなりダメなやつだった。4年生の時、卒業までに取得しなければならない単位は34も残っていて、履修したのは34単位だった。つまり1つたりとも単位を落とすことが許されないという背水の陣だった。卒業できるだろうか?と不安だった。卒業者はまず掲示板に張り出される。肌寒い3月のある日、僕は死刑宣告をうける覚悟で通いなれた坂をのぼり、そして掲示板に自分の学生番号をみつけた。卒業出来たのである。我が生涯における3大幸運の1つ、神様からのプレゼント、完全なラッキーパンチであった。

運良く、卒業が決まった僕はふと「卒業旅行」なるものをしてみたいと思い立つ。4月から社会の一員として働きはじめる、その前に自由を謳歌してみたかったのだ。当時のITバブルのおかげで僕は時給のよいアルバイトをしており、懐は温かかった。
父親に「社会に出たら、長い休みは取れない。ヨーロッパなんかは今行かないといけないぞ!」と言われたのが説得力があり、行き先はヨーロッパに決めた。
ヨーロッパのどこか?そんなもんイギリスとフランスに決まっている。海外事情にうとい僕にとって大英博物館でミイラを見たい、ルーブル美術館でモナリザを生で見たいというのが数少ない具体的に描ける目標だった。

あてのないヨーロッパの旅
イギリスを数日旅してからユーロスターという鉄道でフランスに入った。パリは予想以上に楽しい町であった。ルーブル美術館は素人の僕でもわかるような有名作品がわんさかあった。ご飯もおいしかった。
パリを旅行して3日くらい。計画をたてずに旅行をしていた僕は時間を持て余してしまった。帰りの飛行機が出るのはまだ一週間ある。僕はパリの本屋で手に入れた地球の歩き方(フランス)を読み返し、行ける場所を考えることにした。食の都リヨンあるいはモンサンミッシェルは行ってみたいけれど遠い。そして飛行機にはこれ以上のりたくない(怖いから)。あまりに観光客が多い、いわゆるベタな場所はなんかかっこわるい気がする。
ほどほどに近く、ほどほどに遠く、ほどほどに人気だけれども、ほどほどに人気がないそんな場所を探していた。

そして見つけた。 『ドーヴィル(Deauville)』という町を。

パリから北に向かうノルマンディー地方の海沿いの町で、高速鉄道で数時間でいけるという。ビーチがきれいで夏には避暑に来るお金持ちでにぎわうらしい。さらに地球の歩き方にはドーヴィルからすぐ近くにはエトルタというさらにマイナーな町があって、おもしろい形の岩があるという。僕は直感でドーヴィルにかけてみることにした。

そして北の街へ、
高速鉄道はパリの北駅から出る。英語もしゃべれない、旅行経験もゼロに等しい僕が、どうやって切符を買ったのか定かでないが、とにかくやたらと駅構内を歩き回って、ドーヴィル行きの電車がでるプラットフォームを必死に探しあてた記憶だけはある。

なんとかドーヴィルについた。生まれて初めて外国で自分で行き先を決め、切符を買い、目的とする場所にたどり着いたという喜びを全身に感じながら駅の外にでる。
ひと気がない。
ドーヴィルは閑静を通り越して閑散とした町だった。3月の海辺の町なんてそんなものだと今となっては思う。駅前は人影がまばらで、コンビニもなく、バス停もなく、ホテルを予約しようと思ってたどりついた観光案内所は無人だった。

コンビニで1つだけおにぎりを買って食べたいくらいの空腹を感じて、駅の周りを探すとそこには一件だけ喫茶店があった。外から店内を覗き込むと、真っ暗で客はいない。怖いからやめようという気持ちは空腹に負け、僕はその店に足を踏み入れた。
「ボンジュール」
フランス語以外を話す気はないからねと言わんばかりの先制パンチを食らう。
つらい。 メニューを渡されたが、当然フランス語でかかれていて、読めない。パリでは英語メニューがあったのに…


タルトの洗礼
しばらくまったく意味不明なメニューと格闘し、Tarte Normandiという文字を見つけたときはうれしかった。このノルマンディー地方で人気のタルトが出てくるんだろうと予想がついたからだ。コーヒーとTarte Normandiをオーダーしてみた。程なくして店主が飲み物とタルトを持ってくる。まさしく思い描いた、日本でもよくあるドライフルーツタルトだ。
さっそく食べようとすると店主がチッチッチと指を左右にふり、おもむろに茶色い液体をタルトにかけて右手に隠しもっていたライターの火を近づける。僕のタルトは一瞬青い炎につつまれた。どうやらブランデー(後にカルバドスというこの地方名産のお酒と判明)をかけて火をつけるという演出らしい。今で言うところのドヤ顔というやつでニコニコと僕をみつめる店主の手前「わおーー!」と大げさにおどろいてみせるフリをしたが、実のところ僕はまったくお酒が飲めなかった。カルピスサワー1杯で酔いつぶれて寝てしまうほどに弱かった。
なぜそのままで美味しいタルトにブランデーをかけてすべてをぶちこわしてしまうのか。意気消沈して食べたタルトはあたりまえだが「お酒の味」がした。
フランスでフランス語ができないことの難しさを実感した。
当時の写真は残っていない。これは雰囲気が似ているポートルイスでの一枚。


ドーヴィルの孤独
ドーヴィルではいろいろな経験をした。昼ご飯を食べにレストランに入ると、横で推定70台のおばあちゃん二人組がワインを二本空けているのには驚いた。レストランの少なさにも驚いた。もちろん道を歩いていても看板が気づきにくいだけだったのだろう。ただ当時の僕にはホテルの人や道行く人にレストランの場所を聞く度胸も英語力も無かった。冬のビーチは人の気配がなく寒々しかった。最初に入った何軒かの店で英語で話しかけて、あからさまに嫌そうなそぶりをされた。数日の間、言葉を交わすのはホテルのフロントの英語が堪能なスタッフだけ。孤独を感じる日々だった。

そうそうエトルタにもいってみた。タクシーに乗って30分くらい。白い砂浜の先に断崖がある光景はガイドブック通りに美しかった。持っていた使い捨てカメラで写真をとった。時間だけはあるのでウロウロ歩き回ったが記憶にのこるようなものはなかった。

帰りもタクシーにのったが、今度は45分もかかった。ぼったくられたのだろう。

こんな閑散とした町で日本人にも遭遇した。その日僕は手持ちのお金が尽きてしまい、銀行にでかけた。あいにくその日は銀行が定休日で両替できなかった日本円を片手に「明日まで残り少ない現金でどう生きのびるか?」を考えながら、すごすごとホテルに帰る道すがらだった。町のはずれで日本の若い女性4人組とすれ違った。すれ違い様向こうが「こんなところにも日本人いるんだねぇ」と話しているのが聞こえた。
事情を話して日本円を両替して欲しいとおねがいしてみるという案も浮かんだが、それを実行に移す勇気はなかった。

ドーヴィルにはけっきょく5泊くらいしただろうか。あの町でコミュニケーション能力ゼロの僕がどうやって過ごしていたのか今となっては不思議である。ただ新しいレストランを試すのが怖くて、例のタルトは滞在中三度もたべた。やることがなくホテルの部屋でただ寝ていた日もあった。

帰りの飛行機はシャルルドゴール空港発、韓国インチョン経由、成田行きだった。インチョンでの乗り換えでなぜか関空行きを待ち続けた僕は、搭乗口で間違いに気づいた。あわてて成田行のゲートに走った。飛行機は既に飛び立って影も形もなかった。
「旅にハプニングはつきもの♥」と書かれたガイドブックの字がにじんだ。

 反省もした。すこしだけ
 この文を読んだ方は旅が楽しかったのか疑問に思われるかもしれないが、僕は楽しかった。自分で行き先を選び、気ままに行動することが。日本に帰ってからは友達に経験をちょっと大げさにして伝えた。
「突然海がみたいと思いたって、北をめざしたよ。なんかみんなが行くような観光地はいやでさー」
「いやー、フランス人は全然英語下手だね」
計画性の無さや自分の英語力が足りてなかったことはすっかり棚にあげた。
 
一方でこの旅でコミュニケーションできないとどうにもならんという状況をはじめて経験した。世界は広く僕らが理解できない言葉で談笑し、昼間からワイン2本をあける怪物のようなおばあちゃんがいるということを知った。コミュニケーションがとれない世界で自分がどれだけ無力で孤独かを知った。世界ってやつを初めて実感した瞬間だった。

その後、仕事でもプライベートでもいろいろな場所にいったが、この時ほどの孤独を感じたことは一度もない。もし旅行の行き先がハワイのような日本語でも通じる場所だったら、あるいは僕が友達と旅していたら、今ほどコミュニケーションがとれないことに対する危機感をもっていないだろう。英語を頑張って勉強しようとは思わなかったかもしれない。そう考えると人生の一つの分岐点だったの言ってよいのではないか。

だからこそ
だから今、コミュニケーションがとれない世界で苦しんでいる人をみると、誰でも最初からうまくいくはずがないし、高い壁を感じた人の方が危機感を持つぶんだけこれから伸びるよといいたくなる。

いやちょっと違うな。最初からどんな壁もとっぱらって打ち解ける才能を持った人がいるのは事実だ。僕にその才能はないけれど、語学などのテクニックにすぐれていたり、人柄やエネルギーでまわりを引きつける人をたくさん見てきた。
だから僕がいいたいのは、もしあなたがそういう天才でなかったとしてもだ、あとからコミュニケーション能力は身につけられるから心配しなくていいということだ。

僕は今、フランス語ペラペラになって、もう一度ドーヴィルに行ってやろうと思っている。今度はあの喫茶店でタルト以外の何かを注文してやるんだ。。。

Dec 7, 2014

11月の光景

もう2014年も終わりかけですね。

誰が読んでいたとしても、誰も読んでなくても淡々と書き綴るこの前の月を振り返るブログ。最近一番の読者は自分だなときづきました。時々見返すと面白い。

11月1日、2日
中学の友達と飲みに行ったり、両親といきあったり。最近の車はハイテクすぎてよくわからない。

11月前半
本の原稿の最終チェック。出版社の編集の人の指摘が的確ですばらしい。というか専門家として恥ずかしい。

最近、深夜の電話会議が増えていて、慣れない英語で意思を伝えようとするとどうしても大声になりがちなことがあり、USBヘッドホンマイクを買う。微妙に音質が悪い。Macのビルトインのカメラ、マイク、スピーカーは本当によくできている。OSとハードを同じ人が作ることの大切さよ。

11月14日
少なくとも3年前から、みんなに協力してもらってやってきたプロジェクトがあえなく打ち切りとなる。とても悲しい。

11月15日
職場の先輩が担当している大学の講義を聞きに行く。知らない世界の話はいつも面白い。来年は中国に旅行にいきたい。

11月20日
部署の仲間と打ち上げ。6月のお祝い事の際にいただいたシャンパンをみんなであける。リラックス。

11月21日
人生10カ国目のとなるアフリカへ。今回の訪問先はインフラがとても整っている国で、治安もよく、その分仕事に集中することができた。良かった。具体的な様子はまた来月。


明大茶、頭良くなりそうだ。

学生時代の友達と五反田へ。レバーうまい

自家製ネギ油最高です

仕事に励む我々




今年のリンゴは蜜の入り方がすごい

Nov 10, 2014

よくわからないが使いやすい。美しくないが使いやすい。

私はIBM(今はLenovo)Thinkpadシリーズの愛用者である。Thinkpadの魅力はいろいろあるが一番は手に馴染むキーボードである。トラックポイント(キーボード真ん中の赤いポッチ)とキーボードの相性は抜群でホームポジションから手を離すことなく全ての作業が完結する。これを超えるキーボードはないと思っていた。

そんな私がMacbookに手を出したのはおそらく五年くらい前。以来、Macのカチャカチャするキーボードに違和感をいだきつつも、両方を使い続けてきた。

異変に気づいたのは最近のことだ。なんとなくMacbookのほうが打ちやすい、操作しやすいと感じてきたのだ。Macbookの広く取られたトラックパッドがしっくり馴染むようになってきた。Thinkpadのキーボードを触っていると窮屈な感じがする。

改めてキーボードを見比べてみて一つ気づいた。Macbookのキーボードはホームポジションとトラックパッドの中心が揃っておらず美しくない。Thinkpadのキーボードはシンメトリーで美しい。





だが(Thinkpadファンとしては悔しいことに)Macbookのほうが使いやすい。トラックパッドを使うのは右手だから、右寄りトラックパッドが使いやすく感じるのか?理由はよくわからない。

よくわからないが使いやすい。美しくないが使いやすい。

Apple製品のデザインについて美が強調されるが、Appleは使いやすさのためなら美しくないものも受け入れるということを、毎日お目にかかるキーボードが物語っているのではないか。

Nov 1, 2014

10月の光景

とりあえず写真だけ。
大学院のインフォーマル発表がおわって、先延ばし続けてきた論文かかなきゃ。

バーナード・ショーが書いた喜劇運命の人の一節
「イギリス人は生まれつき世界の支配者たる不思議な力を持っている。彼はあるものが欲しい時、それを欲しいということを彼自身にさえ言わない。彼はただ辛抱強く待つ。そのうちに、彼のほしいものの持ち主を征服することが彼の道徳的宗教的義務であるという燃えるような確信が、どういうわけか、彼の心に生じてくる。・・・・・・彼は効果的な道徳的態度を見つけ出すのに決して不自由することがない。自由と国民的独立とを振りかざしながら、世界の半分を征服し併合して植民と称する。またマンチェスターの粗悪品のために新しい市場が欲しくなると、まず宣教師を送り出して土人に平和の福音を教えさせる。土人がその宣教師を殺す。彼はキリスト教防衛のために武器を執って立つ。キリスト教のために戦い征服する。そうして天からの報いとして市場を手に入れる。(中略)彼は何事でも原則に基づいてやる。戦うときには愛国の原則に基づいている。どろぼうするときには、実業の原則に。他人を奴隷化するときには、帝国主義の原則に。・・・国王を支持するときには王党派の原則に、国王の首を切り落とすときは共和制の原則に基づく。彼の標語は常に義務である。しかしイギリス人は、その義務が自らの利益に反するようなものは敗者だということを決して忘れはしないのである。」

忘れてはならないのはこのイギリス人を風刺する一節をかいたショーもまたイギリス人ということだ。「国際政治とは何か」という本で中西寛はこう表現している。
ショウの喜劇はイギリス人に向けて書かれたもので、観客は苦笑したはずである。反省を促し、偽善を正す必要を再確認させる。そこに自己を客観化する目があり、精神に余裕が生まれる。「余裕が風刺をうむだけでなく、風刺が余裕を生む面がある」
風刺にかぎらず、余裕や笑いを大切にいきたいと思うね。