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Mar 20, 2011

地震と津波の話

大震災から一週間がたった。この先状況は徐々によくなっていくと信じているが、今は僕も会社の人もその家族も無事であることがわかり束の間ほっとしている。

改めて書くほどのことでもないが僕は「臆病」である。これは常に最悪の場合を想定することが求められる職業病というよりも、生まれ持った性格なのだろうと思う。東海村で起きた臨界事故の記録などを数年前に中途半端にかじったせいで放射能の恐怖が頭に植え付けられていた。だから地震直後から非常にびくびくして過ごしていた。冷静を保ってまわりに不安を与えないようにと自分なりに気は使ったつもりだけれども、恐怖心を隠し切れていなかったと思う。近しい人たちには申し訳ないと思っている。

[caption id="attachment_2354" align="aligncenter" width="224" caption="震災の日の夜。道を埋め尽くす車"][/caption]

これだけ多くを奪った震災に何か前向きなものを見出すとするならば、追いつめられた時に人の本性が現れることを実感出来たということだろうか。恐怖から攻撃的になったり、否定的になったり、盲目に何かを信じたりする人がいるなかでも淡々と事実を収集し自分の頭で考え続けることを止めない人がいた。普段は強がっているのにまっさきに逃げ出した人がいた。無力だけれども人の力になろうとしている人がいた。買い占めるのではなく買い与える人がいた。そういう土壇場の人間の行動をみることができてよかった。そして恐怖に負けず、社会人としての自分を保ててよかった。

震災の直接の被害にあった東北地方の為に僕なんかができることは限られているが、せめてもの気持ちで、ANAの義援マイルのサービスを使って自分の残りマイル全額を寄付してきた。長距離の国際線に乗りまくって、放射線を浴びまくってためたマイルの使い道にふさわしいじゃないか。

誰かがTwitterにいいことを書いていた。「みんな勘違いするな、今は世紀末じゃない。年度末だ!!!」
観念して年度末の仕事に戻ろうと思う。

Feb 25, 2011

海釣りと船酔いと会社と仕事の話

釣りにも海にも縁がない人生を送っているが、2年前に一度だけ先輩に海釣りに連れて行ってもらったことがある。季節は秋真っ盛り、僕らは岩手のとある湾でヒラメを釣りに行った。釣り船にのせられて30分ほど沖に出たのだが、その日は海が荒れていた。海は初心者にまったく優しくない。よく海に出ている先輩とその弟さんが「今日はひどい」といって気持ち悪くなるくらいの荒れ方なのだから、相当だったのだと思う。波は前から横から斜め後ろから釣り船をおそう。他の乗り物では味わえない3次元の揺れである。僕はあっという間に普段なら「運転手さんそこで停めてください」というレベルにまで気持ち悪くなった。が、そこは海のど真ん中である。このうねりから逃げるすべはない。絶望的だった。
そんな僕を見かねて先輩が助言をくれた。「こみやまさん、竿や手元や近くの海を見てはだめです。遠くをみて、そしてただ見るだけじゃなく遠くの一点を集中して見てください。たとえば遠くに見える、あの岸にある3角形の岩。あれだけをじっと見るんです。」 藁にもすがる気持ちで、僕は遠くの岩をひたすらに見続けた。船は揺れる、床は斜めになる、バケツは転がる。そんななか遠くの岸の1つの岩だけを見続けた。しばらくすると、自分でも驚くほどに、酔いがおさまった。遠くの動かない一点をみることによって、相対的に自分の姿勢がわかりやすくなり、三半規管が調整を行えるようになったというのがからくりだと思う。先人の知恵というのはすばらしいものである。見事船酔いから復活した僕はヒラメと鯖とおおきなアイナメを釣って、人生初の海釣りを首尾よく終えることができた。

さて、ここで書きたいのは釣りたてのヒラメの刺身がいかに旨いかについてではない。今の自分の状況とそれを生き抜くヒントを図らずもこの海釣りで得ていたということである。

エンジニアとして始まった僕の社会人経験はおよそ10年の旅をへて、岸をずいぶん離れた、潮のうねりが激しいところにさしかかっている。うねりは大小様々である。国内での選挙や海外の政変の変化によって引き起こされるうねりに翻弄されかと思えば、ものすごーく小さな人間関係の亀裂にあたふたさせられる。そして波はどの角度からもやってくる。スポンサーからも上司からも、上司の上司からも、同僚からも、海外の取引先からも。波はどれもユニークで、不規則で、制御不能だ。さらに数が半端じゃないときている。

こんなに波が激しいと、どうしても足下をみて、小さな波をみて、その一つ一つにそなえるようになってしまう。波に翻弄されているのである。このままでは激しく船酔いしてしまうこと確実である。

ではどうするか? 船酔いと一緒だ、遠くにある動かない一点を集中して見るのだ。たぶん僕の場合、遠くの一点というのは「誰もが安心してネットを使える社会」である。それがかなり遠いところにあることは知っているが、この際その距離はどうでもいい。そうやって遠くの一点を集中して見ていれば、手元や近くの変化に一喜一憂することなく、絶望することなく、驕ることなく、流されることなく、ぶれることなく仕事をしていける。 、、、いけるんじゃないかな?いけるといいな。

正直、もう帰りたい と思ってた時

なお、ヒラメや各種岩手の海産物のうまさについては以前書いたブログを参照されたい。

Jan 28, 2011

人前で話すことについて語るときに僕の語ること

先週からずっとトレーニングの講師をしている。改めて思うのだけれど人に何かを伝える仕事は難しいが、やりがいがある。自分で言うのもおこがましいのだがそういう人前で話す仕事では良い評価をもらうことが多い。恥ずかしいけれど、誰かの役に立つかもしれないので、僕が普段意識している基本を紹介したいと思う。


他人から預かった時間を大切にしたい


目の前にいる人たちはみな、忙しい中時間を作って僕の話を聞きにきてくれているはずである。だから同じことを伝えるなら話は短い方がいいと思っている。60分の枠があっても伝えるべきことを伝えたら早く終わらせたい。それには短い時間で効率的に中身を伝える必要がある。
だから準備には時間をかける。今でも新しいテーマの時は必ず本番と同じ時間のリハーサルをしている。当然だと思われるかもしれないが実際にはこんな基本をやってない人が多い。話していて「えっと、ちょっと前のスライドに戻りますが、、、」というように話とスライドの順序があっていなかったり、「あ、この数字はちょっと古いんですが、、、」みたいなことを本番で気づく人がどれだけ多いことか。こういう初歩的なエラー、時間の無駄遣いは声をだしたリハーサルするだけで100%防げる。
こう考えることもできる。発表前に僕が独りで30分頑張って何かを調べて本番で余分な話を3分カット出来たとする。その講演を100人が聞いていたら100人 x 3分 = 300分の時間の節約になる。僕が30分がんばるだけで、みんなの300分を別の有意義なことにつかえるかもしれない。そう考えると人前にたつ人の責任は重く、やりがいがある。

次に何をすべきかを提示したい


どんな時でも話には伝えるべきメッセージがあるはずである。「はずである」と書いたのは、社会人になってから間を持たせることだけが目的の止めどない話を聞かされることがあるからである。ちょっとかなしい。
だから僕は常に「これを聞いているあなたにこれをして欲しい」というお願いをするようにしている。何をお願いしたいのかを考えることがつまり伝えるべきメッセージを考えることになっている。

そのメッセージに対して「それは違う」などの反論がでることはしょうがないというか、むしろ一石を投じただけ価値があったと考えるべきだ。恐ろしいのは無反応で終わってしまうことである。

難しいことを簡単に伝えたい


専門家としての話を期待されているときに思うのは、難しいことを噛み砕くことが僕の存在価値であるということである。込み入った内容も工夫してシンプルに説明するように心がけている。専門用語や横文字を乱発し、聞いている人を煙にまく「自称専門家」は論外である。

分かりやすく伝えるためのこつは本質に関係ない枝葉を刈り取ることだ。そして枝葉と切り落としてはならない幹や根を峻別するためには伝える事柄を深く理解する必要がある。勉強を地道に頑張るしか無い。

ちなみにこの能力が際立っているのは最近テレビで活躍している池上彰である。あの域に到達するのは難しいとしても、近づくための努力はしなければならない。

できればかっこいいと思われたい


モテたいわけではないが、やはり嫌われるよりは好かれたいものである。話す内容は重要だが、それを聞いてもらうためにも「あ、こいつはなんか面白い話をしそうだな」と思ってもらえる雰囲気を作る必要がある。
笑顔であるとか、声量がちゃんとあるとか、場にあった服装であるとか、つかみのジョークとか。些細な心がけはきっと聞いている人にも伝わると信じている。

反響を謙虚にうけとめたい


講演の後に会場で参加者が行うアンケートなどの結果は真摯にうけとめてやろうということである。数多く寄せられる意見の中にはいわれも無い批判(と本人には感じられる)も含まれていたりする。自分が追求たりなかったと薄々感じていた箇所をずばり指摘されることもある。

こんなマゾヒスティックな行動をおすすめする理由は、面と向かって感想を述べてくれる人たちは大抵褒めてくれるからである。それだけを聞いていれば自分の講演や講義がうまくいったという錯覚に陥る。だが、実際には面と向かって僕を評価してくれたのは、100人の聴衆の中のたった2人なのかもしれない。それ以外の多くの人の意見を知るにはアンケート結果などに目を通すしかないのである。

3年くらい前に自分の講演に対するアンケートのコメント欄に「うわついていた。もっと落ち着いてまじめな話をできる人をよんでください。」という意見を見つけた時は悲しかった。分かっている。全員を満足させるような話は出来るはずが無いということはよく分かっている。それでもできるだけ良い方向に近づきたいと思うから、僕はアンケート結果を読んでいる。

[caption id="attachment_2335" align="alignnone" width="300" caption="たいてい恐る恐るみるアンケート結果"][/caption]

以上が、技術というよりは精神論に近い心がけ5つである。無理矢理に一言でまとめるならば聞いている人への敬意をわすれないということになる。スライドの作り方、話し方、外国語力などといった技術についてはいろいろな本で語り尽くされていることだが、それは相手への敬意という土台の上に初めて成立する話だと僕は思っている。

はてなは本当によくできていると思う

唐突だけれど最近ブログを書く機会が減っている。仕事がいそがしいとかいろいろ言い訳はあるのだけれども、大きな理由の一つははてな日記をやめて自前のサーバにWordPressを移してから「書くという行為」が億劫になったことである。

もちろんWordpressは本当に高機能で見た目もかっこ良くて、プラグインも豊富で言うこと無い。現在手に入るCMS(ブログアプリって感じ?)としては最高のものだと思う。だけどやっぱり「日々を日本語で記録するしかけ」としてははてな日記には遠く及ばない。それを実感した。

はてなが優れてるのは日本語の書きやすさと読みやすさだけが追求されているという点だ。スタイルで設定された行間のピッチやページの両脇のマージンなどが絶妙で読みやすい。そして自分の日記を見返しているときにワンクリックで加筆修正できるなどかゆいところに手が届く機能が標準で備わっている。はてな日記を使っている時には意識もしていなかったが、離れてみて初めて分かったはてなの地味なすごさである。

もう一つ今のブログに不満をもっているのはいかんともしがたいもっさり感である。理由ははっきりしている。僕のサーバがAmazonのEC2というクラウドサービスを使っていて、何をするにしても太平洋を越えて通信しているからだ。Amazonのクラウド技術の進歩の速さやそのソフトウェアの素晴らしさは認めつつも、Amazonはもうちょっとサクサク感を演出する対策をした方がいいのではとも思う。プログラミング言語のJavaは「なんかのろい」という最初のイメージを払拭するのに大分苦労してましたぜ?

そんなわけではてな日記に出戻ることを考えている今日この頃です。そして時間があったら最近読んだおすすめの本や美味しかったレストランなどを紹介したいと思う。

風邪をひいた


この2週間風邪をこじらせていて倦怠感というもののつらさをほぼ産まれて初めて味わっているところである。倦怠感はつらい。食欲があるのに食べれない。やる気はあるのに体が動かないというのがこんなにつらいとは思ってもみなかった。

会社の人や各方面に散々迷惑をかけつつも今は大分回復してきた。去年のラーメンのトッピングのほうれん草で食あたりして2日休んだ件といい、段々体は弱くなってる。意識して鍛えないと行けない年頃であることを実感した。

Jan 4, 2011

あけましておめでとうございます。2011年1月の風景

笑ってはいけないスパイをみていたら気づいたら日付が変わっていました。最悪です。
年々新年を迎えた時のワクワク感が減っているきがします。お年寄りが節目節目の行事を大切にするのは、目減りしたワクワク感を埋めるという目的もあるのかもしれません。とにかくつれづれに書いてみます。


[caption id="attachment_2316" align="alignnone" width="450" caption="今年もいった露天風呂"][/caption]



親戚で集って新年会をしたときに祖母が近所の人にもらったというイノシシ肉をもってきてくれました。祖母もイノシシ肉は初めてらしい。当然ぼくも初めて。豚汁の要領でイノシシ汁にしてみました。




[caption id="attachment_2317" align="alignnone" width="600" caption="祖母がくれたイノシシ肉"][/caption]


脂が厚くて肉は実質200gくらいでしょうか。

オリジナルイノシシ汁レシピ(6人分)

材料: イノシシ肉200g、ゴボウ1.5本、大根0.5本、にんじん0.5本、エノキ1束、長ネギ1本、しょうが1かけ味噌大さじ5、みりん、塩少々



  1. イノシシ肉は脂身を集めに残しつつ分解。薄くそぎ切りにして日本酒につける

  2. ゴボウは細かくささがき、にんじんは薄く切る。大根は5mm程度の厚さの銀杏切り

  3. 鍋にサラダ油少々とイノシシの脂身を50gほどいれて弱火で熱をいれ、イノシシ油を出す。

  4. イノシシ肉、ネギの青い部分、みじん切りした生姜を加えて軽く炒める。

  5. 肉が白くなったら、ゴボウと大根とにんじんを加える。

  6. 鍋に水を加えて10分くらい。時々灰汁を取る。取りすぎない

  7. 味噌を半分程度とネギの白い部分を加えてさらに10分くらい弱火で煮る。




イノシシ汁できあがり

心なしか豚汁よりこくがあって、あったまりました。美味しかったです。生姜はすりおろしてもいいかもしれません。

環境破壊が進行したせいで、里山のイノシシが民家の周辺に現れることが激増しているというニュースをみました。特に異常気象のせいで今年は出没件数が増えているそうです。このイノシシがどういった経緯で仕留められたのか定かではないのですが、地球のきしみによるものでないことを祈ります。

[caption id="attachment_2319" align="alignnone" width="600" caption="12/30の田舎町の駅前は賑わっていた"][/caption]


ぼくの生まれた町は景気の影響を受けて、全国でも有数の不景気な町だそうです。一緒に飲みにいった友達にも思うようにいかない話をききました。 イノシシ肉から環境の変化を感じるように、働けるのに仕事がない友人たちから不景気について考えさせられます。

さてさて今年1年の目標ですが、まずは仕事が増えて出張が激増する状況でも365日元気に暮らすことを1番の目標にしたいとおもいます。それから何度も目標に掲げながら挫折していますが、家計簿をつける習慣を今年こそ身につけたいと思います。


やるぞ2011!

Dec 10, 2010

11月の風景

写真で振り返る11月頃。

上野の国立博物館にいった。目当てははやぶさ関連の展示だったけど、宇宙凧イカロスの帆を見る事ができて嬉しかった。この帆はものスゴく薄い。打ち上げ時にはキレイに折り畳んで宇宙で展開するというのだから、高度な技術が必要だろう。体勢をかえるメカニズムも目から鱗でした。

[caption id="attachment_2304" align="alignnone" width="600" caption="宇宙凧イカロスの帆の1/4。想像してたよりでかい。"][/caption]

コンピューターセキュリティ関連のイベントに参加した。「若手が育ってない」とたびたび耳にするけど、ここに集まったの若手は 熱い。人は「育ってない」のではなく旧世代とは違うフィールドで勝負しているのだと思う。いろいろとお世話しつつも、自分自身がもっとがんばらんといかんと再認識した。

[caption id="attachment_2305" align="alignnone" width="600" caption="AVTokyoはもりあがっていた"][/caption]

Twitterには何度か書いたけど南アフリカのヨハネスブルグに出張した。世界で一番危険な街と言われているだけのことはある。夜は出歩きたくないと思った。まぁでもサンパウロも結構酷かったからな。とにかく今年はサンパウロ、ヨハネスブルグという危険な都市トップ2を経験したので、今後大抵の事では動じないと思う。

[caption id="attachment_2307" align="alignnone" width="600" caption="絶対近づいてはいけないダウンタウン。普通の光景に見えて建物のガラスが割れている。"][/caption]

[caption id="attachment_2306" align="alignnone" width="450" caption="ヨハネスブルグの市街地"][/caption]

南アフリカではトレーニングの講師をした。準備の時間がとれなかったわりにはうまくいったと思う。受講者アンケートの指摘も上司のアドバイスも次に同じような機会があったら、きちんと改善してやろう。

[caption id="attachment_2308" align="alignnone" width="600" caption="お客様の声"][/caption]

なにはともあれ終わっただけでこんなに嬉しく思える仕事は久しぶりです。いやー、すっきりすっきり。

Nov 9, 2010

忙しかった10月と「ヤリガイ」について考える

今年で社会人10年目になる。毎日仕事をしてお金を得るという生活を10年近くもしていることになる。先月はその10年の中でもっとも神経を使う局面が続いた。目つきが悪くなるという外見の変化以外にも、歯医者をさぼりだす、図書館の本を滞納する、家が汚れる、運動しなくなる、肌が荒れる、独り言が増えるなどの忙しい時の悪い癖が全て吹き出した。

あらためて仕事をすることの難しさを感じるけれど、仕事にやりがいはあるし昔の自分よりは幅も奥行きも増しているはずである。

って所まで書いてふとおもったのだが、この「ヤリガイ」というのは河原に積み上げた石のごときぐらぐら揺れる言葉だと思った。理由はうまく説明できない。ただ僕は「ヤリガイがある仕事をしたい」という人よりは「楽しい仕事をしたい」と考える人と一緒に仕事をしたいと、そう思うのである。

この螺旋が途切れたらまた落ち着いて考えてみたいと思う。

[caption id="attachment_2295" align="alignnone" width="600" caption="空き缶達。バレル缶ってのがおもしろくて撮った1枚"][/caption]



[caption id="attachment_2293" align="alignnone" width="600" caption="べガス?ダラス?の青い空"][/caption]

同期の結婚式でまさかのナイアガラ 。ナカジおめでとう!!!


[caption id="attachment_2296" align="alignnone" width="600" caption="かつてはジャガイモだったなにか"][/caption]

Sep 28, 2010

結果報告: 走りました

約3ヶ月ほど前にエントリー「決意表明:走ります」に書いたとおり、第3回菅平スカイライントレイルランレースに参加しました。19kmを2時間43分で完走。何人中なのかはわかりませんが25位という満足できる結果でした。

コースは厳しい登りあり、平地あり、崖あり、登山道あり、牧場あり、笹藪あり、岩場ありと本当に自然の中を走った感じがしました。僕が長時間走ることが嫌いな理由の1つは退屈だからというものですが、今回は景色がめまぐるしく移ろって飽きませんでした。

直前のコース変更により15kmが19kmになるという初心者には悪夢のような出来事はあったものの、終わりよければそれでよしです。

[caption id="attachment_2285" align="aligncenter" width="448" caption="ゴール後の空はとくに青く綺麗だった"][/caption]


ずっと近くに住んでいて身近なはずの菅平の新たな魅力を発見出来たのがよかったです。
またこんな秋晴れの日に仲間を誘って、今度は同じコースをのんびりハイキングしたいと思いました。

Sep 25, 2010

カメラ狂いの曾祖父の戦争

祖父が学徒出陣した話は、1つ前のエントリー「祖父と戦争」に書いたとおりである。
このエントリーでは酒に女に骨董にカメラにと放蕩を繰り返した曾祖父が、実は戦争中にその趣味でずいぶんと村人に感謝されたという話をしたい。

[caption id="attachment_2255" align="alignnone" width="600" caption="出征前の記念写真(左から祖父の姉、祖父、曾祖母、曾祖父)"][/caption]

この出征前の家族写真を見たときに、跡継ぎ息子を戦争にとられようとしているのにリラックスした笑顔の曾祖父の表情がすこし気にならなかった。 もしかしてこれで心置きなく遊べると思っていたりして? 母親にたずねたところ、曾祖父には曾祖父の戦争のエピソードがあるということがわかった。

戦中に曾祖父は戦争に行った留守家族を訪ねて写真をとったのだという。もちろん戦地の兵隊さんに家族の写真を届けるためである。
祖父の残した大量の乾板の中にはそういった「戦地の家族への笑顔」がたくさんのこされている。

その一部を紹介したい

[caption id="attachment_2272" align="alignnone" width="600" caption="はぜかけの稲の前で"][/caption]

[caption id="attachment_2273" align="alignnone" width="600" caption="干し柿?"][/caption]

[caption id="attachment_2274" align="alignnone" width="600" caption="小さい子供を残して出征した家庭だろうか"][/caption]

[caption id="attachment_2275" align="alignnone" width="600" caption="立ち方も似てしまうよね。家族だから。"][/caption]

[caption id="attachment_2276" align="alignnone" width="600" caption="右端に照れくさそうな少女"][/caption]

[caption id="attachment_2279" align="alignnone" width="600" caption="他にも多数"][/caption]

どれも農村の人々のかざらない笑顔と生活をそのまま伝える写真である。当時の写真は、人生の節目に一張羅をきて街中の写真館にいって写真をとってもらうというようなビッグイベントであるがゆえ、曾祖父が撮った写真は資料価値があるということで地元の市立博物館で特別展が開かれ、めぼしい作品は冊子にまとめられた。

その巻頭に祖父はこんな言葉を寄せている。
『太平洋戦争の末期に、父が村中の出征兵士の留守家庭を精力的に回り、戦地へ送る写真を提供していたことは、私は留守で知りませんでした。然し戦後の村人の間では、戦時中の好ましい話題として語られ、私にまでお礼をいわれました。(中略) こんなに村内を隈なく回ったのは、妻は「一人息子を戦場に送っている父の気持ちがそうさせたのでは」と言います。思っても居なかった妻の説も、頷けるところがあるような気が致します。』

どうしようもない遊び人の曾祖父も一人息子を思い、他の出征兵士を思い、村を駆け回っていたのである。

Sep 24, 2010

祖父と戦争

ここに一枚の写真がある。

歴史の教科書などにありがちな、変哲もない出征兵士を見送る写真だ。ただし見送られているのは僕の母方の祖父である。

[caption id="" align="alignnone" width="600" caption="右に立つのは両親である曾祖父と曾祖母"][/caption]

祖父が招集されたのは昭和18年、いわゆるひとつの学徒出陣というやつである。相模原の陸軍通信学校の兵科に入学し通信兵としての教育を受けた。その後満州に渡り、電信8連隊に所属した後、希望が通って北海道の室蘭通信所に赴任した。終戦時は室蘭通信所長を務めていたという。 曾祖父のアルバムには、祖父の運命を変えた一枚の紙切れも乾板写真として保存されている。一部モザイク。



[caption id="attachment_2266" align="alignnone" width="395" caption="入営を命ず"][/caption]


祖父は今も存命で、しかも元気である。ただし戦争の話をしたがらない。孫はもちろん、娘にもめったに戦争の話をしないという。

そんな祖父が珍しく思い出を語ってくれたことがある。正月にお屠蘇を飲みながら、太平洋戦争の時に日本軍の暗号が米軍に解読されていたってのは本当なのかを質問してみた時の事だ。

『大分前から、海軍の暗号書がとられたという噂は中でもあったな。。。』
『終戦の1年前くらいから、今度は陸軍の暗号書も漏れたんじゃないか?どうもおかしいぞ。って話があったよ』

祖父の記憶は鮮明で、僕は慌ててメモを用意した。
『通信兵は「暗号書」と「鍵」ってのを持たされていてだな、でも終戦で引き揚げてくるときにはそれを燃やせという指示が出た。』
『燃やせる場所が無くてだな、引き揚げるときの室蘭駅の駅長室のストーブを借りて焼いただ。』
『とっておいたらよかったかなぁ。』
元通信兵ならではの戦争の話、娘である僕の母親も初めて聞く話であったらしい。

祖父は終戦後、故郷に戻り、同じ村の女性を嫁にもらい、そこに母や叔父、伯母が生まれた。 祖父が満州で死んでいたら、シベリアに抑留されていたら、室蘭で死んでいたら、僕はこの世に生まれなかったことになる。

戦争がどうこうは置いておいて、祖父には生き抜いてくれてありがとうとしか言えない気がする。

[caption id="attachment_2258" align="alignnone" width="600" caption="子供の頃の祖父と当時としては珍しい自転車"][/caption]

そして改めて写真の説得力の強さに驚かされてます。