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Sep 24, 2010

祖父と戦争

ここに一枚の写真がある。

歴史の教科書などにありがちな、変哲もない出征兵士を見送る写真だ。ただし見送られているのは僕の母方の祖父である。

[caption id="" align="alignnone" width="600" caption="右に立つのは両親である曾祖父と曾祖母"][/caption]

祖父が招集されたのは昭和18年、いわゆるひとつの学徒出陣というやつである。相模原の陸軍通信学校の兵科に入学し通信兵としての教育を受けた。その後満州に渡り、電信8連隊に所属した後、希望が通って北海道の室蘭通信所に赴任した。終戦時は室蘭通信所長を務めていたという。 曾祖父のアルバムには、祖父の運命を変えた一枚の紙切れも乾板写真として保存されている。一部モザイク。



[caption id="attachment_2266" align="alignnone" width="395" caption="入営を命ず"][/caption]


祖父は今も存命で、しかも元気である。ただし戦争の話をしたがらない。孫はもちろん、娘にもめったに戦争の話をしないという。

そんな祖父が珍しく思い出を語ってくれたことがある。正月にお屠蘇を飲みながら、太平洋戦争の時に日本軍の暗号が米軍に解読されていたってのは本当なのかを質問してみた時の事だ。

『大分前から、海軍の暗号書がとられたという噂は中でもあったな。。。』
『終戦の1年前くらいから、今度は陸軍の暗号書も漏れたんじゃないか?どうもおかしいぞ。って話があったよ』

祖父の記憶は鮮明で、僕は慌ててメモを用意した。
『通信兵は「暗号書」と「鍵」ってのを持たされていてだな、でも終戦で引き揚げてくるときにはそれを燃やせという指示が出た。』
『燃やせる場所が無くてだな、引き揚げるときの室蘭駅の駅長室のストーブを借りて焼いただ。』
『とっておいたらよかったかなぁ。』
元通信兵ならではの戦争の話、娘である僕の母親も初めて聞く話であったらしい。

祖父は終戦後、故郷に戻り、同じ村の女性を嫁にもらい、そこに母や叔父、伯母が生まれた。 祖父が満州で死んでいたら、シベリアに抑留されていたら、室蘭で死んでいたら、僕はこの世に生まれなかったことになる。

戦争がどうこうは置いておいて、祖父には生き抜いてくれてありがとうとしか言えない気がする。

[caption id="attachment_2258" align="alignnone" width="600" caption="子供の頃の祖父と当時としては珍しい自転車"][/caption]

そして改めて写真の説得力の強さに驚かされてます。