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Oct 31, 2019

10月の光景

去年まで理事をしていたFIRSTで、ファーウェイの会員資格停止が決まった。北大の中国研究者が招かれて訪れた北京で拘束された。中国関連のいいニュースを聞かない月だった。

2019/10/1 (Tue)
APCERTの年次総会。オーストラリアが率いてきた体制が、マレーシアに引き継がれることが決まる。選挙の結果は順当といえるものだが、開票途中ではかなり心配になった。
フー。

2019/10/2 (Wed)
夜は元同僚と取引先(日本人、アメリカ人)の4人で火鍋を食べに行く。火鍋のあとはワインバーで軽くお話する。


2019/10/3 (Thu)
帰国。帰りの飛行機でKing Gnuの飛行艇を聞く。Apple Musicにあったのでダウンロード。
羽田からバスに乗るが、高速渋滞の影響で深夜に帰宅。

2019/10/4 (Fri)
朝から会社で勉強会。
春先に中国の知人から、重要インフラのサイバーセキュリティに関する国際会議の案内がきていて参加を前向きに考えていた。この日、主催者との連絡がとれなくなり、Webサイトも消滅したという連絡を同僚から受ける。チャイナすごいな。

2019/10/5 (Sat)
娘の幼稚園の運動会。天気が良すぎて日向は日差しが辛いレベル。終わってからスーパー銭湯で風呂に入り、ご飯を食べてかえる。


2019/10/7 (Mon)
昼休みは銀座でランチを食べながら仕事の相談。その後霞が関で3件打ち合わせ。ちょっと時間の使い方が非効率。

2019/10/8 (Tue)
前からの知り合いの方が、日本の自動車会社のサイバーセキュリティを担当されることになりランチ。15時頃成田空港へ移動。
成田エクスプレスの中で電話会議1件。Paris Callへの組織としてのスタンスを明らかにするという宿題をもらう。Paris Call自体は非常にバランスがとれたいい文書だと思う。
これを弊センターのような技術集団が推すのが適切か? そして3年後に推したことがどう見えるか?という2つの疑問について自問する。
22時過ぎにアジスアベバに飛ぶ。

2019/10/9 (Wed)
朝6時にアジスアベバに到着。成田→ソウルインチョン→アジスアベバは年1回は必ず乗る。もはや手慣れたものである。
ホテルにチェックインした。今回は先方が手配してくれたハイアットリージェンシー アジスアベバにとまったが、今振り返ってもアフリカでこれまで止まってきた数々のホテルの中で一番快適だった。
別に豪華というわけではないが、全てが機能的である。
シャワーを浴びて、お昼前にアフリカ連合本部にいく。30分ほどのCSIRT構築支援に関するプレゼンテーションを終えた。政府の職員がプレゼンすると、ありがちなのが、成功事例だけを並べ立てるパターン。あえて我々が南太平洋で行ったキャパビルが割と失敗したという話をし、その教訓を伝えた。好評だった。


2019/10/10 (Thu)
FIRSTの理事を一緒に4年やったイギリス人と朝のレストランで一緒になり、久しぶりに気兼ねないおしゃべりと朝ごはん。僕は彼のことをしているし、彼も僕のことを信頼している。そういう関係が4年の財産だと改めて思う。
お昼はアジスアベバで働く日本人とアフリカ連合の偉い人と打ち合わせを兼ねたお昼ごはん。英語のボキャブラリーがないので、アフリカ連合の偉い人に失礼な言い方をしてしまったかもしれない。率直さの現れと好意的にとってくれることを祈る。ここ数年アフリカについて抱えていた謎のいくつかがとける。ホテルに戻ってから翌日の会議のための予習。
夜はホテルの1Fでウェルカムディナー。先週シンガポールで会った人たちがかなりいる。飛び回っているのは自分だけではないのだなぁ。



2019/10/11 (Fri)
終日アフリカ連合で会議。国連のOEWGとGGEのチェアが揃い踏み。アフリカ各国からは国連のレベルでもっとキャパビルを頑張ると宣言してほしいというお決まりのリクエスト。
その気持ちはよく分かるが、いろんな会議で聞く「途上国は支援が必要、もっと支援を」という発言はあまり状況を改善しないのではないか? 自分が途上国の外交官だったらどんな発言をするかを考える。


2019/10/12 (Sat)
朝ホテルをチェックアウトして、終日クローズド会議。ちょうど日本を台風が襲っていた時期であり、東京の自宅、長野の実家のことを不安に思いながら会議を聞く。午後早めに会議が終わった。3年間ありがとうございました。本当に貴重な経験をさせてもらった。委員会に、やたらインテリジェンスについて語りたがるおっちゃんがいたが、最終日にして初めてMI6のNo.2だったことを知る。



2019/10/13 (Sun)
17時に成田到着。洪水の影響を心配していたが、幸いなことに鉄道も動いていて、順調に帰宅できた。
委員をつとめている先生に簡易な報告のメールだけして寝る。

2019/10/14 (Mon)
朝から子供と遊びに行く。夜は回転寿司。
出張報告をまとめる。

2019/10/15 (Tue)
会社で集中して仕事。2時過ぎの会議を終えてから、赤十字国際委員会の主催する会議に参加する。日本橋に早稲田大学のサテライトキャンパスがあるとは知らなかった。
5年前にOECD関連で一緒に仕事した人が、ドイツの大学の先生になって参加していた。久しぶりの再会を喜ぶ。夜は懇親会。


2019/10/16 (Wed)
朝9時からの講演のために朝6時台に家を出る。会社でメールをチェックしてから会場へ行き講演。

2019/10/17 (Thu)
会社でストレス対策の勉強会。2つの分水嶺、不眠と食欲減退の症状がでたら、非常に危険なのでプロ(医者)に見てもらう。予防のためには①深呼吸、②ウォーキング、③自然と触れ合うなどが効果的。

2019/10/19 (Sat)
博論。全7章構成の中で書きにくくと困っていた4章をがんばる。

2019/10/20 (Sun)
引き続き博論と向き合う。4章は書き終わった。

2019/10/21 (Mon)
同じ分野の研究者の方々との飲み会@新橋。新橋はポケストップが多い。

2019/10/22 (Tue)
即位礼正殿の儀。朝から中国出張中の同僚とのやり取り。判断に迷う、急なメディア対応が発生しそうである。ある程度原をくくり、現地の判断でうごくよう依頼する。責任は自分が取るとは言ってないが、その覚悟である。

2019/10/24 (Thu)
朝から溜池で会議。午後嬉しい来客あり。インターネットの殿堂入り者に送られる盾の現物を見せていただく。


2019/10/25 (Fri)
午後、IGFベルリン対策会議のようなものがあり、参加する。

2019/10/26 (Sat)
博論のボリュームの目安は200ページと言われていた。自分はまだ170ページくらい。ただ先輩たちの博論はフォントが大きく、行間を広くとっていた気がする。
いくつか先人たちの博論の1ページあたりの字数を確認し、それに基づいて自分の原稿を計算しなおすと、既に240ページ書いた計算になる。
字数は足りている。あとはかっこいいサマリーというか全体を貫く芯のあるメッセージをバキッと書くだけである。このサマリーの出来が重要なのは分かっているので悩みは尽きない。

2019/10/27 (Sun)
引き続き博論と向き合う。翌日の講演の用意や溜まった仕事も片付ける。週末家族で過ごせないのはストレスフル。
12月に主催するEUとの会議の案内状を関係者に送信する。やらなきゃやらなきゃと1週間思い続けていたので、スッキリ。溜めるのは精神的によくないですな。

2019/10/28 (Mon)
午後に霞が関のおもーい会議で30分の講演。お題は「CSIRTとは何か」。重い会議での講演のポイントは、講演者自身が馬鹿に見えないギリギリのラインまで話を、噛み砕くことである。
そういう会議では誰も、「XXXがわからなかったのですが」という質問をしてこない。こちらがやりすぎなくらいに簡単な話をしない限り、歩み寄れない。
そんなわけでギリギリまで絞り込んだ話をした。質問はまったくなかったので、この試みが成功しているかは定かではない。今年の春先の週末をすべてつぎ込んだ論文が新たな仕事につながったことは素直に喜ばしい。
講演終了後に別の講演会の主催者との事前打ち合わせ。
夜は藤沢駅前のホテルに宿泊する。


2019/10/29 (Tue)
朝一でSFCの大学院での授業。東アジアなんたらという授業で、慶應と復旦大学と延世大学校を中継で繋ぐ。SFCのOBでもある元同僚のK氏に手伝ってもらう。
自分のパートの出来はイマイチだったが、K氏の部分で盛り返してよかったという感じ。
授業後、大学院の諸手続きについて窓口に確認にいく。湘南台でK氏と別れて渋谷で行われているCodeBlueカンファレンスへ。
聞きたかった、同僚の発表は既に終わってしまっていた。残念。
恵比寿で打ち合わせ1件の後に、目黒のホテルに宿泊。

2019/10/30 (Wed)
GCSCを一緒にやっていた知り合いがCodeblueのために来日しているということで、お願いしてクローズドな勉強会をセットした。
彼女はサイバー空間に国際法がどう適用されるかを専門家達が解釈した「タリンマニュアル2.0」の筆頭編集者である。出会ってから1年くらい、若いのにタリンマニュアルにめちゃくわしいという印象をもっていたが、彼女が書いていたと知ったときは驚いた。
諸々の都合で朝8時からの会議になってしまった。朝一で渋谷のホテルに行き、タクシーでオフィスへ。オフィスでは同僚が、導線の確保やコーヒーなどの用意を終えてくれていた。素晴らしい。
セミナーはサイバー空間の国際法全体について幅広く議論するというもので、正直ついていけない部分もあったが参加者からは大変好評だった。


Oct 30, 2019

講演のメモ。リース・ヴィフィル「Cyberspace – A Lawless Wild West or Orderly Chaos?」

リース・ヴィフィル「Cyberspace – A Lawless Wild West or Orderly Chaos?」

以下にメモを書くけど、結論というか一番大事なのは「現代の我々の前には2つの選択肢がある。1つはサイバー空間をこのまま無法地帯で放置すること、もう1つは完全ではないこと、弊害があることを受け入れた上でサイバー空間を統治する法をつくることである。」という言葉だと思いました。

前置き

なぜ法律が重要か?
  • そもそも法律とは社会契約を正当化するものである
  • 法律の中でも、国際法は、国際社会における国家の望ましい振る舞いを決める
国際法の価値
  • 国際社会の予測可能性をあげる。予測可能性は安定性を有む。
  • 国際法は、法の執行の可能性を高める。ただし国際法が執行されるのは、国家がその法が執行されることを望む場合のみであり、執行可能性は大いに不透明さが残る
現代の我々の前には2つの選択肢がある。1つはサイバー空間をこのまま無法地帯で放置すること、もう1つは完全ではないこと、弊害があることを受け入れた上でサイバー空間を統治する法をつくることである。

条約

条約は基本的には「良いもの」である
  • 1945に国連憲章がたちあがった。その目的は世界大戦を防ぐため
  • 2015年のパリ合意は、(失敗という声が多いが)地球温暖化を食い止めるための条約
  • ICCPR(市民的及び政治的権利に関する国際規約)は奴隷、差別、死刑、拷問などをへらすための条約
  • 変わり種として、日豪間では絶滅危惧の鳥を保護する日豪渡り鳥保護協定がある

サイバー空間を統治する条約

既存のサイバー空間をめぐる条約と呼べるものは少ないが存在する。
  • ブダペストコンベンション
  • SCOの合意(Code of Conduct)
  • 2013 EU Cyber Strategyは「New International Legal instrumentsを求めない」という立場を明らかにした
ブレグジットや米国の国際条約への冷淡さを見ても、2019年はグローバリズムが弱体しているタイミングであり、国際条約の議論をするのには厳しいタイミング。

新たな条約をつくる道

条約はまず最初に言葉の定義と、その条約のスコープを決めるところから始まる。Cyber securityという言葉の定義も定まっていない。一般に民主主義国はインフラへの攻撃を防ごうと、中露は情報面での攻撃を防ごうとしており、そのため民主主義国家はCyber Security対策をしようとし、中露はInformation Secuirty対策をしようとする。このような状況において、新たな条約で国際社会が合意する可能性は低いと言わざるを得ない。

次善の策は?

  • 新たな条約が難しいとして、次善の策は、現在ある国連憲章などをサイバー空間に拡大することである。
  • 国連憲章の2条4項において武力行使はUnlawfulである。サイバー作戦は武力行使の範疇と捉えれば、これを補足し、抑止できる。
  • どのようなサイバー作戦が武力行使とみなされるのか、専門家の検討が続いている。Tallinnマニュアルはこのような状況に指針を示すために作られた。(注: 講演者自身も筆頭編集者として参加している。)

日本の役割、チャンス

  • 日本政府は繰り返し、法の支配の推進を主張している。しかし、どの法がサイバー空間を支配するのかなどスタンスが不明瞭である。
  • 日本は国連の会合UNGGEとOEWGの両方に参加している。
  • 日本に求められるのは、国際法がサイバー空間にどのように適用されるかについて、日本の考えを明らかにすることである。これについてアメリカイギリスオランダは文書を公開している。当然ながら、どの文書も適法/違法のしきい値を明らかにしていない。それをしてしまうと自らの危険を高めるからである。

日本の技術コミュニティはどうすべきか

サイバー空間独立宣言でジョン・ペリー・バーロウはサイバー空間は国家などの規制を受けないとした。2019年現在、社会がサイバーへの依存を高めるており、サイバーセキュリティのリスクも上がり続けている。法律はそのリスクを低減するための手段である。

Oct 11, 2019

エドワード・スノーデンの自伝「Permanent Record」には何が書かれているか

エドワード・スノーデンの自伝「Permanent Record」。話題の本なので読んでみた。邦訳は11月終わりに出るそうな。(2019/11/12追記。出版される。予約開始。)出版社の動き早くて驚く。


構成

本書は3部構成となっている。1部は生い立ちから、CIAで働き始めるまでの過程を描く。2部はCIAとNSAで具体的にどのような業務を行っていたのかを、そして3部は内部告発を行うと決心してから、それを実行し、追われる身となってモスクワでの生活を始めるまでを描く。それぞれの部は10程度の章に分かれており、以下では章ごとにその内容を大雑把にまとめる。

第一部

1. Looking Through the Window
ノースカロライナ州に生まれ、沿岸警備隊の中で情報システムを担当する仕事をしていた父親の影響で早い時期に、コモドール64でプログラミングをしていた。母親や2人の姉妹と共に平和な家庭に育った。

2. THe Invisible Wall
スノーデン自身の家族と先祖の話。父親も、母親も、母方の祖先も、それぞれが軍や沿岸警備隊で働き国のために尽くした人であった。そのことをスノーデン自身が誇りに感じていることが伝わる。子供時代を通じてファミコンで様々なゲームを楽しんだ。ゼルダ、ロックマン、マリオカード、ストリートファイターなどの名前があがる。中でも好きだったのはスーパーマリオ。『マリオは一方向にしか進めず、「見えない壁のせいで」引き返すことはできない。マリオが教えてくれた「人生は引き返せない、前に進むだけ」はもしかすると人生で一番大切な教訓である。』

3. Beltway Boy
中学生ぐらいの時期になり、ワシントンD.C.とアナポリスの間、メリーランド州クロフトンに家族で引っ越す。母親はNSAで仕事を得た。場所柄、隣近所をみても、CIA・NSA・FBIなどで働く家庭が多い特殊な環境だった。親が子供に何の仕事をしているか話せない、お隣がどこに勤めているかわからない、そういう状態が普通であった。

4. American Online
父親が自宅にコンパック製のPC/AT機を買い、これに夢中になる。この時期にインターネットに出会い、そしてオンラインゲーム(具体的にUO)にハマる。1990年代のインターネットをスノーデンは「金のためでなく啓発のために人が働き、良識の集合による規制が行われた場所」と捉える。そして「それは私が経験した中で最も心地よい、栄えたアナーキーであった。」と懐かしんでいる。

5. Hacking
この章を通じて、学校というシステムに疑問を呈するスノーデンのハッカー体質がみてとれる。シラバスの内容を理解し、宿題をせずに好成績を取ろうとしたスノーデンに対して、教師は採点システムを書き換えるという方法で対抗する。スノーデンが、努力を惜しんでいると考えた教師は「君はその頭脳を仕事を避けるためでなく、ベストな仕事をするために使うべきだ。君には大きな才能がある。しかしここでの成績が君の人生に一生ついて回ることに気づいていないようだ。君自身の消えない記録(permanent record)を気にかけたほうがいい。」と語りかける。「消えない記録」という本書のタイトルがここで初めて顔を出す。ハッキングの技術も蓄え、ロスアラモス国立研究所のWebの脆弱性を指摘した顛末も描かれる。

6. Incomplete
高校に入り、父が家を出て、母が家を売り、姉とスノーデンといくつかの家を転々とした。淡々とした語り口だが、生活全般が一転して不安定になったことが伝わる。高校2年で昼夜逆転、成績壊滅、授業でもパソコンの前でも寝るなど生活が荒れる。なるべく早く社会にでて稼ぎたいと考えるようになったスノーデンは、高校卒業していなくとも入学できるコミュニティカレッジに出願し、入学する。

7. 9/11
スノーデン16歳頃の話。母は仕事に没頭し、炊事や洗濯などすべて自分でしていた。このころ日本語学校に通いはじめ、仲良くなった人たちからアニメなどについて聞くうちに、これに傾倒していく。日本語学校で知り合った女性を手伝う形でWebデザインの仕事をしていた。そしてそこで働いているときに9・11同時多発テロが発生した。

8. 9/12
9・11を経験して、自分の技術を国を守るために使いたいという気持ちが芽生える。しかしコンピューターの前の仕事だけでは刺激が少ないように思えた。そこで陸軍で働くことにした。沿岸警備隊で働いた祖先が多い家庭なので、陸軍という選択に母は一日泣き、父は技術の持ち腐れになると反対した。

9. X-Rays
陸軍のリクルーティングシステムについて若干の説明がされる。スノーデンは語学や計算のペーパーテストの結果が素晴らしく、18 X-Rayというカテゴリで入隊する。新兵トレーニングのかなり早い段階で立てなくなり、両側脛骨骨折の診断をうける。陸軍を去る。除隊の形式については、名誉でも不名誉でもなく、入隊取り消しに近い形だった。しかしそれは訓練中に汚させたという軍隊の失敗を覆い隠すためのものだったのかもしれない。

10. Cleard and in love
陸軍を去り、良い職を得るためにまずはTS/SCIという取得が難しい(時間がかかる)クリアランスを取ろうとした。クリアランス取得のための奇怪なプロセスと念入りな検査の様子が描かれる。この頃、後に結婚するリンジー・ミルズとhotornot.comというデーティングサイトを通じで知り合う。22歳のときに遂にクリアランスを取得し、NSAに契約職員として内定し、そしてリンジーと付き合い始める。

第二部

11. The system
二部ではNSAでシステム管理者として働くスノーデンの様子が描かれるが、それに先立って本章ではシステム管理という仕事やインターネットについて、馴染みのない読者むけの解説が行われる。合わせてスノーデン自身のサイバーリバタリアンとでも言うべきインターネット観が開陳される。インターネットは誰もが対等で、生活と自由と幸せを追求する場だった。そしてその考え方はアメリカの建国の意図と相似しているとスノーデンは言う。

12. Homo Contractus
米政府が契約を通じて、安全保障という本来の役割を放棄しているという批判が行われる。契約制度は予算を肥大させ、しかしその金が職員ではなく企業にはいり、また予算が何に使われたかの透明性を損なう。スノーデン自身は、「CIAが契約したBAEシステムと契約したCOMSO」つまり孫受け会社の契約職員となったが、COMSOのオフィスに行ったことはなく初日からCIAのオフィスで働いた。

13. Indoc
CIAで働き出した頃のスノーデンの姿が描かれる。新人教育の最後は組織を裏切ったスタッフが壁に繋がれている写真でおわる。CIAの現在のHQはラングレーでなくマクリーンである。スノーデンはマクリーンの中のあるビルでDS(Directorate of Support)の一員として、CIAの通信インフラの設置などの業務を行った。24時間のシフトオペレーションで夜勤になった際に、先輩社員がバカバカしいほど単純な仕事をしているのに閉口する。CIA本部とはいえ、映画に出てくるような緊張感、ひいては国を守っている感覚を得られる仕事ではなかった。夜の空いた時間に秘密情報を読んだ。CIA内部には新聞が報じる数日前に、より詳細な情報が存在した。海外勤務へのあこがれが増し、契約職員から政府職員へと異動を願い出た。契約職員と政府職員の違いはたった1つだけ、忠誠の誓いをし、合衆国憲法のために働くことを誓った。

14. The court of the hill
ワレントントレーニングセンター(通称ザ・ヒル)での研修について。スノーデンはTISOと呼ばれるCIAの現場の通信全般を担当する技術担当の職員を育成するプログラムに参加する。一度フィールドに出れば監視カメラから、太陽光パネルから、エアコンまで電気を使う機会はすべてTISOの管轄となる。幅広い知識が求められた。TISOは拠点を捨てて避難する際の、拠点内の情報の廃棄にも責任を持つ。軍隊の通信兵に似た宿命を背負い、CIAの多くの職種の中でも離婚率が高い。近くのボロボロのホテルでの合宿生活であったが、待遇改善を求めて、上層部と交渉をした。これで目をつけられ、スノーデン自身が全く希望していないジュネーブ勤務の辞令が下る。
またこの章では、古参職員が「CIAはHQなしでも機能するが、ワレントン無しでは動かない」と語るほどの重要性を持つ施設について、大まかな説明がなされる。

15. Geneva
対外的には外交官の身分でジュネーブで勤務する。ジュネーブは国際ケーブルが多く通り、上空の軌道を通信衛星が通り、金融の流れの情報が集まるハブとスノーデンは言う。パーティを通じた協力者の開拓などに、少しだけ協力するも、その効率の悪さが印象に残る。大使館にはSIGINT業務にあたるNSAの職員がいた。様々なツールを持ち、情報へのアクセス権をもつ彼らにスノーデンは憧れた。

16. Tokyo
NSAの業務への憧れ、そして東京という土地への憧れもあり、CIAの職員を辞して、NSAの契約職員(デル社員)として東京にやってくる。リンジーとスノーデンは福生にすんで横田で働いた。NSAのパフィシックテクニカルセンター(PTC)は太平洋地域全体に対するサポートを提供していた。横田基地の建物の半分はPTCの管轄である。CIAを経験したスノーデンの身にNSAは情報の保全に甘さは残るものの、技術力は圧倒的だった。NSAの究極の夢は永遠である。全てのデータを永遠に保持し、完全な記憶装置を作り上げるという野望がある。消えない記録(permanent record)という本書のテーマが再び印象的に現れる。2001年に始まり、2004年の解釈変更でNSAがいかなる情報も令状なしに収集することを可能にしたSTELLARWINDプログラムについてもその証拠となる文書をどのように入手したかが明らかにされる。

17. Home on the Cloud
2011年、デルのCIA担当として米国に戻ったスノーデン。米情報機関向けプライベートクラウドを作る仕事をしていた。仕事のやりがいも、給与も大幅にアップし忙しく過ごしていたところにてんかんの発作があった。母親もてんかん持ちであったが、遺伝性ではないと聞いていた。信じてきた、国とインターネットという2つから裏切られ、最後に自らの身体からも裏切られた。

18. On the Couch
てんかんで車の運転ができなくなり、バージニアでおこなわれるCIAとの会議に参加することが困難になる。様々な病院に行き、検査を受け、治療を試み、薬を試した。特別休暇を取り、数週間母親の家に転がり込んで、ソファーでごろごろしてすごした。その間に権威主義国家における政変などに思いを巡らせた。何も隠すことがないからプライバシーは必要ないというよく見る論法について、スノーデンはそれは「何も主張することがないので、表現の自由は不要」と言うとの同じくらい馬鹿げていると注意をうながす。

第三部

19. The Tunnel
2012年にリンジーとハワイに引っ越す。温暖な気候とよりゆったりとした仕事内容が健康のために必要という考えであった。the TunnelとよばれるハワイのNSAの拠点に自転車で通える場所に家を借りた。収入は減り、新たな役割(MS Sharepointサーバの管理者)は寝ていてもできるような難易度だった。空いている時間を使って、NSAの内部文書を漁り始めたのは、大規模サーベイランスが本当に行われているのか?行われているのであればどのように?という疑問を解決するためだった。

20. Heartbeat
上司の許可を得て、Heartbeatというシステムを作った。サーバはスノーデンの席の近くに置かれた。NSAがアクセスできる全てのサーバから新着情報を収集し、まとめる機能を持つ。通信帯域を専有しないように気をつけた(それがどういうものか詳しい説明はない)。PRISM, upstream, TURBULENCEなどのプログラムについて概要を解説する。後に大量のファイルをジャーナリストに渡せたのは、Heartbeatにファイルが大量に集められ、整理されていたからである。スノーデンはNSAのような高度な技術者が集う組織において、人は疑ってもシステムを疑わない文化があると指摘する。つまり「誰か」が様々なサーバにアクセスし、大量のファイルをダウンロードしていたらすぐに咎められるが、それがシステムであれば何も怪しまれないということだ。

21. Whistleblowing
内部告発をするということについての一般的な理解を高めるための章。過去のNSAからの内部告発者の例をいくつか紹介する。

22. Fourth Estate
内部告発に至るまでにスノーデンが考慮したいくつかの点について。実はNSAによる大規模サーベイランスの告発をした人物は過去にもいる。彼らは特定のメディアにたよったり、Wikileaksに情報を渡すという戦略をとったが、その問題点と、それを克服するためのスノーデン自身の戦略が示される。またどのように証拠してインパクトのあるデータの選別や、どのメディアに情報を渡すかの検討が行われた。ローラ・ポイトラスグレン・グリンワルドに白羽の矢が立った経緯も描かれる。ジャーナリストへのコンタクトは、新たに調達したラップトップで、ハワイ中をドライブし、セキュリティの甘いWiFiアクセスポイントを使って行った。

23. Read, Write, Execute
本章すべてが、KRSOCからどのように大量の文書を持ち出したかということの解説にあてられる。基本的にはHeartbeatサーバからSDカードにファイルをコピーし、それを持ち出した。1つの文書を受け取り手によって微妙に異なるものにする技術(Single User Document)は様々なものがあり、持ち出したファイルから、それをスノーデンによるものと探知される可能性は低くなかった。匿名での告発をあきらめ、自らが告発者として名乗り出るしかなかった。

24. Encrypt
暗号化技術について一般の人の教養を高めるためのCryptoPartyという草の根の活動を支援していたスノーデンは、自らが勉強会を主催し、講師をつとめた。その経緯や参加者の関心がおよそ暗号化技術になかったことに対する失望の様子が描かれる。

25. The Boy
XKEYSCOREとNSA内部での倫理観に乏しいデータの取り扱われ方について。XKEYSCOREをつかって大統領や芸能人の名前を検索すればそれらの通信記録が見れた。監査は行われていたが、監査の目をかいくぐるのは容易かった。2013年3月から5月はハワイで過ごした。内部告発のための最終準備に忙しかったが、二度とアメリカには戻れない、少なくとも自由な生活をできないという覚悟を決めた。その期間の行動は死を覚悟した人間の行動に似ているのではないか。ジャーナリストとは香港で落ち合うことにした。香港を選んだ理由も詳しく語られる。リンジーとの別れの様子が印象的。ハワイの空港で東京行きの航空券を現金で買い、東京からはさらに香港行きを現金で買った。5月20日に香港についた。

26. Hong Kong
5月20日に香港についたが、ジャーナリスト(グレンとローラ)が到着するのは6月2日。それまでの間、ずっとホテルの部屋にこもり、怯えながらも、資料を使ってどのように効果的に説明をおこなうかのイメトレをしていた。ルービックキューブを目印に待ち合わせをして、1014号室に向かった。後にガーディアンのマカスキルが合流し、6月3日から9日までこの部屋で作業が行われた。6月5日にガーディアンが最初の記事を掲載し、以後段階的に報道がされた。内部告発をしたあとの身の振り方について、スノーデンの事前計画は十分でなかった。特定の国と交渉し、事前に亡命を申請していたわけでもなかった。スノーデンのビデオインタビューが公開される前後から、香港にいることがばれる。6月14日に米政府がサーベイランス法に基づき訴追をおこない、21日に正式に引き渡し要請がされた。香港政府から非公式に退去を求められた。

27. Moscow
支援者のアドバイスもあり、エクアドルに向かうことにした。香港から米国の領空を通らずにエクアドルにたどり着くルートは1つしかなかった。それがモスクワ経由だった。香港発モスクワ行きの飛行機にのった。モスクワでは情報機関の職員が待ち構えており、そこでロシア人の口から自らのパスポートが米国政府によって無効にされたこと、従ってロシアからエクアドルに向かう飛行機には乗れないことを告げられる。空港で立ち往生した。その間多くの国に対して亡命を要請したが、非公式に同情の意を示す国は多かったが、米国を敵に回してまで亡命を受け入れる国はなかった。スノーデンが空港にいることによる諸問題がおき、ロシア政府は8月1日に一時的亡命を許可した。

28. From the Diaries of Lindsey Mills
スノーデンのガールフレンドであるリンジーの日記の抜粋を通して当時の状況を伝える試み。5月23日の時点で彼女がスノーデンが香港にいると確信していたこと。スノーデンのSkypeのステータスメッセージが「ごめん。でもやらなければいけないことだった」と設定されていたことなど。当事者にしかかけない事が多い。中でも、6月9日にスノーデンのインタビューを見て「This was the man I loved, not the cold distant ghost I'd recently been living with」と書き残しているのは、リンジーの強さが伝わってくる。

29. Love and Exile
スノーデン自身の現在の生活について。モスクワ市内の普通のアパートでリンジーと暮らしている。

感想

スノーデンの内部告発については、様々な報道があり、ドキュメンタリーがあり、フィクションの映画まで作られている。それと比べた場合の本書の価値は、香港以降の足取りが少し明らかになったことである。アサンジを手助けした法律アドバイザーと共に行動し、たまたまロシアに亡命することになった流れは初見の情報が多かった。
未だにロシア政府と事前にコンタクトがあったという、噂がつきまとうスノーデンだが、本書には当然ながらそういう気配はない。スノーデン自身は、自らをアメリカという国家のために人生を捧げた両親や祖先の家庭で育った、ごく一般的な人間として見せようとしている。
ここでは本に何が書かれているかについて語ってきたが、もう一つの重要な視点は何が書かれなかったのかという点である。それは別の機会にまとめたい。

ガールフレンドのインスタグラムを見る限り、ロシアから一歩も出れない、クレジットカードを使えないなど様々な不便さはあるものの、仲良くモスクワで暮らしているようでなによりである。



Oct 3, 2019

9月の光景

エドワード・スノーデンの回想録「Parmanent Record」を読んでいる。『(インテリジェンスコミュニティで働くために)必要なのは100%潔癖なことではない。将来脅しの材料となるような隠し事がないことだ。』という言葉は納得してしまう。表と裏を使い分ければ分けるほど、人間的整合性が損なわれ人として圧力に弱くなる。

2019/9/1 (Sun)
アウトドアショップとカフェが複合した施設に遊びにいって、ご飯を食べる。ビルの中にテントがたっていて、その中にこしらえられたテーブルとイスでご飯を食べる。
エアコンがきいていて、手が汚れず、虫にさされない、それでもアウトドア気分という不思議な感覚。

2019/9/3 (Tue)
チームメンバーの誕生日ということで、昼休みにみんなで近所の鰻屋さんに行く。

2019/9/4 (Wed)
大学の友人と渋谷で飲み会。久しぶりに渋谷で降りたが、やっぱりにぎやかだ。
帰宅後、電話会議。


2019/9/5 (Thu)
元同僚と飲みに。急遽にもかかわらず7人集まって、OBの多方面での活躍を聞く。

2019/9/6 (Fri)
夕方歯医者

2019/9/7 (Sat)
自宅で博論の続き。途中で集中力が切れて7km走る。夜に娘を親戚の家に引き取りにいく。夜は2人で寝る。

2019/9/8 (Sun)
移転したお菓子屋さんにシュークリームを買いに。シュークリームは母親が作ってくれた手作りのやつが美味しかった。難しいらしいが、いつか自分で作りたい。
友人K氏が奥さんを連れて我が家に遊びに来る。お土産にもらったうさぎの人形のついたお菓子のバスケットが娘に刺さってた。
夜台風。


2019/9/9 (Mon)
台風のせいで朝から都内は電車が広範に運休していた。朝一からのセミナーは午後開始にリスケされたので、11時頃自宅を出る。13時少し前に文京区のIPAオフィス着。
ワークショップの進行を手伝った。夜は懇親会。日本の研修生が非常に積極的にいろいろな準備をしているのが印象的。


2019/9/14 (Sat)
午後に歯医者

2019/9/17 (Tue)
この日までに博論を9割仕上げて、学位審査委員会を立ち上げる手続きに入りたかったが、間に合わず。

2019/9/18 (Wed)
トラックボールを真面目に使ったことはなかったが、同僚が貸してくれたので試してみる。ボールが大きくなるとそれだけ操作しやすいかと思っていたが、意外とそうでもない。むしろ重くなって、細かい操作が難しくなる。3日間使った結論は、「Macbookのトラックパッドのほうが全然楽」である。

夜電話会議。

2019/9/20 (Fri)
咳がひどい。からんだ痰を吐き出そうと咳をすると肋骨が激しく痛む。
遊びに来た、子どもたちに癒やされつつも、翌日医者にいってきちんと治療することを覚悟。

2019/9/21 (Sat)
朝から形成外科へ。肋骨は折れているかもしれないが、レントゲンでは見えない。サポーターをもらい、同時に呼吸器科にいくことを進められる。その足で呼吸器科へ。神秘湯という漢方薬を処方される。
この日はほぼ使い物にならず。
大学の制度的にはこの日が単位取得満期退学の日。5年半お世話になりました。単位取得退学すると慶應のオンラインジャーナルのダウンロードができなくなる。そしてEduroamが使えなくなる。この2つだけなんとかして継続できないものか?
大学のサーバにおいていて個人WebサイトもGithub pagesに移す。http://www.sparky.jp/

夜回転寿司に行く。




2019/9/24 (Tue)
先日行った呼吸器科へ。血液検査の結果は問題なし。吸い込むタイプのステロイドと追加の漢方薬を処方される。

2019/9/25 (Wed)
韓国出張。朝4時半起き。車、バス、飛行機を乗り継いて昼頃韓国に着く。ソウルにある日本大使館のすぐ横のホテルに泊まったので、ホテルに行く道で慰安婦像の横を通る。平日の昼間だが抗議の集会が行われていた。参加者の多くが中学生、高校生であることに驚いたが、聞くところによれば学校の先生が授業の一環として集会に生徒を引率して参加しているとのこと。「安倍やめろ」という日本語のプラカードをもっている若い女性、「仲良くしよう」というプラカードをもっている年配の男性。小さな空間の中に、いろいろなメッセージがあったと思う。


夜はホストの韓国側のご招待でイタリア料理を食べに行く。
韓国側トップの大学教授のお父さんがこの日他界されたらしく、急遽ディナーを欠席。翌日以降のスケジュールも大幅に見直されることに。理由が理由なのでみんなとても協力的。

2019/9/26 (Thu)
朝ごはんを食べながら中国の研究者と漢方薬について語る。神秘湯という漢方薬を見て「ミステリアススープ!」と喜んでいた。漢方は中国由来の薬だと思っていたが、中国人には馴染みがないとのこと。
送迎バスに乗って高麗大学のキャンパスへ。キャンパスの敷地が広大で羨ましい。学長、学部長が揃い踏み。



2019/9/27 (Fri)
午前は会議の続き。合間にホテルをチェックアウトする。昼に会議がおわる。次回のホストは日本、楽しみである。
昼ごはんは参加者全員で仁寺洞(インサドン)に行き韓定食をいただく。その後o’sulloc(オソルロッ) TEA HOUSEでアイスクリームを食べる。


ホテルに戻って少しだけ仕事をして金浦空港へ移動。電車は乗ってしまえば楽だが、ノルマでのナビゲーションには改善の余地がある。

金浦空港は1年前と比較して大幅に改装されていた。スターアライアンスのラウンジがきれいになっていた。しかし、それでも狭いな。
羽田について、先生に大学の精算処理に必要な航空券の半券を託したら、シンガポール行きに乗るため乗り換えの手続き。韓国でもらったペーパーナイフは機内に持ち込めない。時間もないので廃棄せざるを得ない。

ラウンジで同僚2人と合流する。夜21:30に山口先生のインターネットの殿堂入りが公表される。


2019/9/28 (Sat)
未明に羽田を離陸。朝7時前にシンガポールにつき、Grabでホテルへ移動。朝ごはんを食べる。
ちょうどインターネットの殿堂入りセレモニーがネットで中継されており、山口先生のご家族が変わりに賞を受け取りスピーチする姿をシンガポールから見守る。生まれたときからインターネットが当たり前に存在する世代から、それを作り上げた世代への敬意が感じられるよいスピーチだった。この件、2年半に渡って、ずっと調整してきた。たとえどれだけ素晴らしい成果をあげていても、インターネットの殿堂に認めさせるためには、キャリアのどの部分に焦点をあて、誰に推薦してもらい、選考委員になにを評価してもらうかの戦略が必要になる。我ながらよく頑張れたと思う。
午後はオーストラリアの取引先と打ち合わせ。そのままディナーへ。オーストラリアと日本のコンビで4年間やってきた。わりとよいコンビネーションだったので残念である。

2019/9/29 (Sun)
朝から会議。
夜はディナー。シンガポールには今週、ASEANの閣僚が集まる会議、コモンクライテリアの会議、政府関係者向けIT会議、その他各種バイラテラルの会議が行われていて、関係者はみんなとても忙しそう。

2019/9/30 (Mon)
終日会議。同僚がプレゼンを行う。きっちり練習した成果が現れていてよかった。

夜は地元のシーフードレストランにチリクラブ、ブラックペッパークラブを食べに行く。手が汚れることを見越してティッシュ持参。

食後に1年前に宿泊し、キンドルを置き忘れたホテルに行き、1年ぶりに自分のキンドルと再開を果たす。その後、別のホテルに泊まっている同僚とホテルのバーで打ち合わせ。


久しぶりの覆麺はおいしすぎて危険