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Jan 29, 2017

入国管理での勾留体験記


アメリカは新しい大統領令による混乱が続いているようだ。多くの人が搭乗拒否、入国管理室での勾留などの憂き目にあっている。
「勾留(Detained)」ってのがどういう感じなのか、ご存じない方のために、去年3月に勾留されたときの模様をここに残しておく。


2016年3月19日 勾留されました
今回は初めてアメリカで入国審査のためパスポート取り上げられて別室に連行された。


入国審査官がパスポートをパラパラしていて、いつもどおりスタンプを押すかなと思ったら、ちょっとそこに立っとれと。
3分でお迎えの制服の人が来ました。ちょっと質問されるくらいかな、別に後ろめたいことしてないし、とおもって別室に移動する。
でかい待合室とガラス張りの取調室が何箇所かある。朝の6時。先客が5人くらい。
イメージ的には学校の教室。大きな、横に長い教壇が一段高いところにあってそこにコンピュータとかが並んでる。


とりあえず待合室のパイプ椅子で待つ。
横の韓国人の女の子は携帯電話を取り上げられ、パスコードを教えろと言われて泣きそうになってる。
後ろに座ってるヒスパニック系のタトゥーバリバリお兄さんは小さな声でブツブツ誰かを罵ってる。
トイレに行ったら注射器用のゴミ箱がある。


あかん、これ本格的なやつですね。


「私語厳禁、電子機器厳禁」と鋭く注意される。そうかKindleもだめなのか。


30分後くらいただただボーっとしていたら声がかかって取調室へ移動。かかりの人とマンツーマン。
大柄だが威圧的な感じはしない。
仕事は?名刺をだせ。住所は?両親の名前は?身長と瞳の色は?など聞かれる。
「身長と瞳の色はあなたが見たままではなかろうか」とか余計なことを答えるのを控え、淡々と質問に答える。
係官は一通りの内容を電話でだれかに報告して、また10分後くらいに別の質問をされるというのを繰り返す。


2セット目で「スーダンに行ったことは?」と聞かれ、ここでやっと自分が引っかかった理由が見えてきた。
そう3年前にスーダンに1週間くらい仕事に行ったのである。スーダンでの仕事の中身についてさらに聞かれ、正直に回答する。


この時点で1時間半拘束。乗り継ぎ便の搭乗が始まるので急いで欲しいとお願いするが、「その便には乗れだろうない」とつれないお返事。
「それより腹減っただろう、飯食うか?」と聞かれる。食べる気分じゃないので断ると、書類にサインを求められる。
読むと、「私は係官に食事を勧められたが、自分の意思で申し出を断りました」という書類。不法な取り調べと後から言われることを避けるための書類である。面白い。断ってから気になって周囲をみると、ペラペラのサンドイッチとヤクルトの容器サイズのリンゴジュースみたいのを配ってる。カツ丼なら食べたかった。
その後、日本の非営利団体の職員でありながら、アメリカのノースカロライナ州に登記された会社の役員でもあり、ついでに大学院生という状況について詰められる。電話の向こう側でネットで経歴を調べているようだ。
2時間半くらいたった所で、別の人が現れて、お沙汰と背景の説明がある。

曰く、日本で取得したESTAは無効にされた。今回は特別なVISAをこの場で発行するので出張は継続して構わない。次回以降はまたESTAを申請すること、申請が却下される可能性があり、その時は普通のVISAをとれとのこと。

何故別室に連行されたかというと、2月終わりからESTA申請時にスーダン、パキスタンなどへの渡航歴を申告することが求められることになった。僕はそれ以前にESTAをとっていたので、情報が不足していたため、今回の面接が必要になったということ。


「最後に何か質問は?」
「どうしたらこのような事態を防げたのでしょうか?」
「君にできることはなかった。お気の毒」

サインした書類のコピーとパスポートを返却され解放される。都合3時間の拘束でした。乗り継ぎ便を逃し、振替便を待つためヒューストン空港で15時間待ち。朝の5時に目的地について、朝9時から会議というきついスケジュールになりました。


いい経験になったし、これにめげずにスーダンでもイランでもパキスタンでも必要があれば僕は行くからね!



振り返って、我ながら脳天気な書きぶりである。
それは係官がわりと紳士的だったとか、僕が旅慣れているとかいろいろな理由があるとおもう。
最も重要なのは、勾留の理由が「スーダンに渡航した」という自分の選択の結果だということが、早い段階でわかっていたからだ。
自らの出生国など、自分にはどうしようもない点が勾留の原因であったら、アメリカという国に大きく失望していたのは間違いない。
そしてアメリカは好きな国ではあるが、それでも「ホーム」ではない。あくまで「客」だから訪問して断られても、傷つくことはない。
でも、自分の国に帰ろうとしてこんな目にあったら、その人はそれでもその国を愛せるのだろうか。

さて最後に日本で生活していて、アメリカ旅行を控える日本人の皆さん向けにアドバイスを・・・

  • (稲川会とか山口組に所属していない ) 一般の日本人はVISAを免除されている。今まで通りESTAを申請してから渡航すればいい。
  • 万が一アメリカに入国できない場合、あなたをアメリカまで運んだ航空会社は「あなたを元の国に送り届ける責任」がある。したがって帰り道の飛行機は心配しなくてよい。
  • スーダン、イラン、イラク、シリア、リビヤ、ソマリア、イエメンへに2011/9以降に行った人は日本にあるアメリカ大使館にいってVISAをとる必要がある。念のために補足すると、このルールは昨年のあたまからすでに発効していて、新大統領令とは無関係だ。
  • 上記に該当する人はVISAを取っていたとしても、今後の入国が保証されているわけではない。万一、勾留されたら辛抱するしかない。「日本のパスポートは強い」なんて表現もあるとおり、確率的に我々日本人は勾留される可能性が最も低い国の1つである。 
  • (電子書籍ではなく)文庫本を一冊は手荷物にいれておくとよい。 
  • 僕のときも入国管理官はESTAのルール変更について細かく把握していなかった。システムのアップデートが遅れているとか言い訳していたが、まぁそんなものだろう。今回はその時以上に大幅に急にルールが変わったのであり、入国管理官も新しい上司がヤブからスティックに変なことを言い出して困っているに違いない。ビッグアイにルッキングしてあげてほしい
混乱が早く収束することを、祈ります。



Jan 5, 2017

12月の光景


11月27日
トレーニング2日目、同僚が頑張って無事終了。トレーニング会場がホテルの中華料理屋で驚く。

夜はガーナ人・フランス人の仕事仲間と打ち上げを兼ねて夕食。広い道路沿いのレストランにいく。道沿いで若者が騒いでいて落ち着かないので、2時間程度で早めにホテルに戻ることにした。お店の人にタクシーを呼ぶよう頼んだら「ちょっとまってろ」と言われる。3分ほどでキッチンからシェフがでてきた。まさかと思ったが、シェフの運転するクルマでホテルに戻り、日本円で300円程度お支払する。そういうバイトか。。。 
美しい島モーリシャス

11月28日
朝5時起床、6時半にホテルを出発してモーリシャス空港へ向かう。
ここからヨハネスブルグまで6時間、その後乗り換え待ち6時間、ヨハネスブルグからガーナのアクラまで7時間、アクラからワシントンD.C.まで11時間、ワシントンD.C.の空港からホテルまで渋滞のせいで1.5時間。占めて38時間の移動になった。
飛行機で隣の席が、初めて飛行機に乗る南アフリカ人の女の子だった。「飲み物は無料なのか?」という質問をされたのをキッカケに、機内エンターテイメントシステムの使い方等お世話をする。「日本は中国の一部なんだよね」とかつぶらな瞳で言ってくるのでドキドキした。
荷物失くなる↓
11月29日
予想通りD.C.は寒い。 朝9時にホテルチェックイン。近所の自然食志向のスーパーで買い出し。ホテルにもどって比較的高速なインターネットを駆使し、たまった仕事片付ける。
その後昼寝のつもりで寝たら起きたら夜8時になっていた。どうしてもラーメンがたべたくなりダウンタウンのラーメン屋に20分歩いて向かう。30分待たされたが、久しぶりの日本の味噌ラーメンは本当においしかった。ラーメン屋からの帰り道に北米でしか出現しないポケモンをゲット。

11月30日
昼頃、取引先との打ち合わせ。連絡不備で会議に遅刻。夕方タイ料理屋で打ち合わせをかねた遅い昼食。その後ホテルに戻って仕事。
偉い先生方との対談の仕事を受けることになり日程調整をその秘書さんとする。「7時から21時までの間で」僕の都合を教えてほしいといわれる。偉い人は仕事が好きだ。仕事が好きだから偉くなるのか。どっちにしても体力は才能だ。

12月1日
会議初日。
昼頃会議を抜け出して、別の取引先と打ち合わせ。大統領選挙でトランプが快勝したことについて色々聞く。
街は紅葉が綺麗である。
夜ご飯はUber Eatsを試してみる。ちゃんと届くが、ハンバーガーはいまいちだった。 

12月2日
終日会議。夜はフォーを食べに行く。アメリカ政府のとても偉い人が気さくにみんなに話しかけていてびっくりする。 疲れていたとはいえ、積極的に議論に参加できなかったのは大いに反省するところである。

12月3日
今回の出張は本当に飛行機運がない。効率的なフライトを予約できないために、モーリシャス→ワシントンD.C.の移動が38時間の長旅になり、ワシントンD.C.からの帰国がきっつい日程になる。

12月4日
夕方成田着。自宅に到着したのは22時過ぎ

12月5日
朝イチからサウジアラビア大使館へビザ申請に行く。申請費用だけで8万円。

12月8日
朝から三田で大学院の会議。昼は汐留で会食。その後夜まで接客が続く。

12月9日
午後は打ち合わせ三連チャン。勤め先の20周年記念懇親会。懐かしい人達に会い楽しくすごす。

12月10日
大学図書館で研究の続き。かなり追い込まれてきました。
実家からりんごを送ってもらった。今年は日照時間が不作し、取れ高も味も低調とのこと。

12月11日
22時成田発のドバイ行きに搭乗。2泊5日のスケジュールでサウジアラビアに出張する。空港ラウンジも使えない長旅は結構きつい。荒みかけた心を潤すべく、東京駅の構内でかにめし弁当(2000円)を買う。器が蟹の形で面白い。それでも心が充分に潤わなかったので、バチバチという相撲マンガをKindleで大人買いする。噂通りのいい漫画!

12月12日
朝、サウジアラビアのジッダに到着。入国管理のところで時間がかかったものの手続きそのものはスムーズ。
昼はホテルの日本食レストランで「YakiUdon」を食べる。サラダが意外と美味しくて嬉しい。
数時間でベールをかぶった女性、ターバンや白装束の男性に目がなれる
メッカにも押し寄せる日本のマンガの影響
ジェッダ旧市街はこのように水平・垂直という常識にとらわれない建築が多く、(地震大国出身としては)見ていて心配になる。


12月13日
会議初日。今日は聞き仕事なので気楽。イスラム諸国会議機構(OIC)の本部のビルへ行く。
夜は予定されていた夕食会がキャンセルになったとのことで、旧知のブラジル人と食事をし、帰りに噴水を眺める。
噴水が見える海辺の公園は気持ちのいい夜風がふいていて、足取りも軽くなる。
「女性だけで外出できない」「ポケモンは禁止されている」「(女性は)家族以外の男性と話したら逮捕」とかサウジについては色々と聞いていたが、実際に来てみると表向きのルールと現実の生活にはだいぶ乖離がある。現実の生活はそんなに厳しく、堅苦しくない。
規則が厳しいことで有名なメッカのお膝元であるジッダでこれなので、首都のリヤドなどはもっと緩いという。
不思議とお酒を飲みたいという気持ちにはならない。

夜の散歩。釣りしてるひと多い

12月14日
朝一にホテルをチェックアウト。昨日と同じOICのビルで、今日はオープンカンファレンス。サウジアラビアのビジネスビザは取得に時間とお金がかかることから参加者は少なめ。イスラム圏の友人(マレーシア、インドネシア)は家族を同伴していることが多く、この会議が終わったらミニハッジをしにメッカに行くという。
メッカに行くことが許されない僕はホテルのテレビでカアバ周辺の生中継映像を見る。 

夜八時半の飛行機で、帰国の途につく。 
巡礼をした人は聖水を持ち帰ろうとする。お土産用聖水パックは一人二箱までときまっていて空港前は聖水パックと旅慣れない客でカオス。

12月15日
乗り換えのドバイ空港で、明らかに飛行機になれていないエチオピア人家族をゲートまで連れて行った。いいことをした。
夕方成田着

12月16日
朝から夕方までオフィスでいろいろ。

12月19日
来年2月に企業の社会人教育プログラムの講師依頼があり、その打ち合わせ。夕方『三田評論』の座談会。3人の討論者と1人の司会者に対して仰々しいテープレコーダーが3台。

12月20日
朝から会議続き。深夜に電話会議。FIRSTの来年度(1月はじまり)予算案がギリギリのタイミングで承認されて一安心。

12月21日
大学図書館で研究の続き。

12月22日
午後飯田橋で業界団体の集まりに参加。その後梅酒居酒屋で懇親会に参加し夜遅くに帰宅。

12月23日
娘1歳の誕生日。家族でお祝いをする。

12月24日
自宅で色々。

12月25日
一橋大の図書館へ。本読んでメモとっての繰り返し。足がさむさでプルプル震える。

12月26日
一橋大の図書館へ。午後歯医者の予約をいれていたが、殊の外作業が捗る日だったので、キャンセルし篭もりっぱなし。

12月30日
珍しく新幹線で実家へ。 
両親が用意してくれた一升餅を娘に背負わせてみる。予想通りギャン泣き。

12月31日
弟夫妻の第二子は放っておくと寝ていたり、手があまりかからない赤ちゃんのようだ。その様子におどろきつつ、今年も家族が無事であることを感謝して、年を納める。 

















寝ない子はおばけに連れていかれるという救いも遊びもない怖い話。