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Feb 9, 2013

インフラを想う3冊 (本をまとめてオススメしてみるシリーズ)


おもしろい本だけど、一冊だけ読んでも輪郭が浮き上がってこない、パンチが弱い本がある。人にはオススメしにくいのだ。そういう本の中で別のなにかと組み合わせたら面白いと思えるものを紹介してみようと思う。僕にとって「鴨とネギ」でも、みなさんには「梅干しと鰻」なのかもしれないのだけれど。

インフラを想う3冊



一冊目の定刻発車はJRの鉄道システムが如何に発達し、現在の安定した輸送を行っているかを調べたノンフィクションである。著者が現在の鉄道の運用に欠かせない中央司令室を見学した際の描写は臨場感があり、なかなか心踊るものがあった。

本書のタイトルが問うている「なぜ正確なのか?」については、路線・車両・スタッフという有限資源をつかって、より多くの乗客と貨物を運ぼうとするには、ダイヤを作成しその通りに運用するというのが最善だからという趣旨の説明がなされていた。
多く運びたい、だから正確にしないといけないのである。インフラが貨物乗客の増加にあわせて進化し続ける生き物のように描かれ、守る仕事の難しさが伺える。

二冊目の空白の天気図は太平洋戦争の終戦期に広島の気象台の人々がいかに観測データに穴をあけないように努力したかを綴ったノンフィクションである。終戦時と広島というキーワードから予想できるように、原爆が投下された直後の広島が舞台だ。壊滅的な被害を受け、生き抜くことすら難しい状況のなか、それでも気象台は気象観測を続けた。急性放射線障害の後遺症で仲間がひとり、またひとりと倒れる中でも、時に家庭を犠牲にして観測の数字を積み重ねていく。。

天気予報を社会生活のインフラとするかは微妙なところであるが、予報の元となる気象データを日々記録し、後世に残していくことは我々の生活の基礎となっていると思う。時々、メディアで「観測史上最大の・・・」という前置きのニュースを目にすると、この非常事態にあっても後世のためにデータだけを残した人々のことを思わずにいられない。(というほどではないが、時々思い出す。)

ただし本書を読む限り、職員が絶えず観測を続けられた理由の一つに崇高な使命感があったのはもちろんのこととして、片方では習い性、よく言えば日頃の訓練によって維持されているものの多さを感じた。「すげー爆弾おちたけど、まぁ今日もいつも通り仕事しようや。」という。


三冊目のローマ人の物語〈27〉はローマ帝国の水道や道路などのインフラを紹介している。著者はローマ帝国が敵対者を侵略し、新たに支配下においた際には、まずその都市からローマに通じる道を作ったという事実を紹介している。「すべての道はローマに通ず」という副題の通りである。

道路というインフラを設備することは非支配国とローマ帝国の人と経済を密接に結びつけることに成功し、帝国が長きにわたり繁栄を維持するのに貢献した。僕のような悲観主義者の視点から考えなければならないのは、ローマに通ずる道は反乱分子がローマに攻め入る道にもなりえたということである。
道はローマ帝国を侵略の危険に晒す行為でもあったが、ローマ人がそのリスクをとってもインフラを整備するという判断をしたのは、ありきたりな言い方だが勇敢だ。

一冊目からは二冊目と違い、この本でのインフラは周囲を飲み込んでいく開放性をもっている。そしてそのような開かれたインフラを持つ国が覇権を握ったということは、この本のローマ帝国が、そしてその後の歴史の中でも特に今日もっとも成功している通信インフラ・インターネットを支配するアメリカが、身を持って証明していると思うのだ。インフラを全面的に開放して覇権に近づく。そういう発想の転換を僕らが迫られる時期はそう遠くないはずである。

毎日のようにお世話になっている、電気会社・上下水道会社・ガス会社・運輸会社・佐川急便、そして何よりも私にインフラの大切さをちょいちょい再確認させてくれるソフトバンクモバイルさんに感謝しつつ、このとりとめのない読書感想文をおわりたい。

Feb 8, 2013

陰口を慎んだほうがよい理由


これといった思想も、特定の宗教を信じることもなく生きている自分ではあるが、一つだけ気をつけている事がある。それは人の陰口を言わないことである。
なんと当たり前のこと、と驚かれる向きもあるかもしれない。しかし世の中には陰口と悪口が大好きな人がいる。そして「人の陰口はよくない」と道德を全面に掲げて否定する人もいる。そのどちらもちょっと違うとおもうのだ。

まず陰口を言っても問題を解決しない。ちなみに、あなたが、誰かの行動に腹が立ったとして、それをその「誰か」がいない場所で第三者に伝えるのがここでいうところの陰口である。
陰口は「誰か」の耳に届かない。腹がたったことを直接「誰か」に伝えれば改善される可能性が1%はある。しかし陰口は「誰か」の耳に届かない。永遠に改善されない。

まれに「誰か」の耳に届くこともある。陰口が第三者を経て、たいてい尾ひれがついて、「誰か」に伝わる。これはもとの陰口の内容に加えて、人伝に聞かされるというダメージが重なり、「誰か」の気分を害するだけである。改善の見込みはゼロであるばかりか、「誰か」の信頼をなくす。

次に陰口はコストがかかる。お金がかかるという意味ではない。頭をつかうということだ。陰口を言うという行為は、時と場合と同席する人によって自分の意見を変えるのであるから、高度に知的な営みである。子どもは砂場で遊んでいる他の子に「くさーーい!」と叫ぶが、大人は居酒屋あたりで「課長、くさくない?ヒヒヒ」とささやく。大人が汚れてしまったわけではない。大人は知的なのである。だがしかし、大人には国際情勢から親戚の葬式から高血圧対策まで考えなければいけないことがある。せめて陰口をやめることによってもっと楽に生きればよいのだ。

なお、我々は聖人君子でないので腹が立つ事はある。その時は我慢すればいいのである。我慢の限界を超えたら、その時は面と向かって言ってやればよいのである。思えば小さいからこのポリシーをもっていた私は中学時代になんにでもずけずけ発言したことから「介入関与」という仰々しいアダ名を頂戴した。なんとなく「内閣参与」と響きが似てるので将来的に私もその程度までは出世するのだと思う。その後の人生においても、「毒舌な○○さん」「きっつい性格」どころか「ちゃぶ台返し○○」と言われる始末である。子鹿のはかなさとエグザイルのボーカルの頭に線がない方のスタイルを兼ね備えている私が、こんなヒドイ言われかたをされるのはひとえに「言ってまう」ポリシーのせいと思われる。そう、それ以外考えられない。うん。

話がそれた。

陰口は慎むべきである。それは道德の問題でなく、経済の問題である。陰口を捨てることで、あなたは世界が良くなるチャンスを得る。シンプルな世界を得る。もしかしたら「介入関与」というアダ名を得る。また愉しからずやである。